今でも、母があの日にぽつりと漏らした「真っ暗な家」という言葉を思い出すと、落ち着かなくなる。
母方の親戚の話だ。私は本人から直接聞いたわけではないのに、なぜかその家の湿った空気が鼻の奥に沈んでくる。母が語るときの、少し声が乾く感じが、そのまま移ってしまったのかもしれない。
親戚のお母様が、ある日を境に急に起き上がれなくなったという。転んだわけでもなく、熱が続いたわけでもない。ただ朝、布団から身体を持ち上げようとして、そこで止まった。
親戚は昔から家のあれこれを気に掛けてくれる「まっぽしさん」に相談したらしい。「何でもぴたりと言い当てる人」で、土地の癖や家の流れを見る人だと母は言った。
私はその話を聞いた瞬間、母が昔、台所の蛇口の水の味まで言い当てられたと笑っていたことを思い出した。だが今回の話には、笑いの気配が一切なかった。
まっぽしさんは電話口で、開口一番こう言ったという。
「最近、庭に大きな石を入れなかった? まずそれをどかしなさい」
親戚は、その造園のことを誰にも話していなかった。庭の隅に据えた石は重機で運び込むほどのもので、確かに家の景色を大きく変えていた。
石を退かした日の夕方、親戚のお父様の身体の不調は嘘のように消えた。数日前から続いていた肩の重さや息の引っかかりが、すっと抜けたという。
ただ、お母様の寝たきりだけは変わらなかった。
「せっかくだから実家も視てもらったらしいよ」と母は続けた。
そのときの笑い方が、妙に乾いていた。湯呑の縁を指で押し転がす仕草が、落ち着きのなさを隠していなかった。
まっぽしさんは、しばらく黙ったあとで言ったそうだ。
「……何も見えません。まっくらです」
見えないものを見る人が、何も見えないと言う。その言葉の重さを、母も掴みきれていない様子だった。
続いた言葉が、さらに輪郭を歪めた。
「人の縁が絡み合っていて、辿れません。調べようとしないほうがいい」
そのとき、私は背中の皮膚がゆっくり冷えていくのを感じていた。
親戚の家には小学生の頃、一度だけ行ったことがある。暗めの廊下、乾きかけた植木鉢、空気の動きの鈍さ。だが、あの程度の暗さが「まっくら」とは思えない。
それでも玄関を思い出すと、光が吸われていく感じが確かにあった。
親戚はそれ以上まっぽしさんに深入りしなかった。お母様の容体は変わらず、静かな日々が続いているという。
話はそれで終わるはずだった。
だがその夜から、私は奇妙な感覚に足を取られ始めた。
母から話を聞いた晩、寝室の電気を消した瞬間、ほんの一拍、視界が沈んだ。暗いのではない。沈むのだ。
真夜中に目を覚ますと、天井の隅に黒いひだのようなものが重なって見えた。瞬きをしても、形はゆっくり寄り合うように揺れていた。
「人の縁が絡み合っていて……」
その言葉が脳裏で折り返す。絡み合う縁ではなく、絡み合う黒がこちらを見ている。そう思った瞬間、身体の奥が縮んだ。
翌朝、母に話すか迷い、結局黙った。話してしまえば、何かが繋がりすぎる気がした。
鏡の前に立つと、背中に薄い影が貼りついているような気配だけが残っていた。肩の裏が、少しずつ冷える。
その日、母から短いメッセージが届いた。
「そういえば、あの親戚の家……昔からあなたが行くと、照明がチカチカしたよね」
胸の奥が引かれた。
——あの家がまっくらなのではなく
——私がまっくらを連れていったのだとしたら
考えに触れた途端、背中の影がわずかに重くなった。
照明を落とすたび、影の縁が寄り合う。私が見るというより、向こうが確かめてくる間合いだった。
三日目の夜、寝返りを打った肩口に、生乾きの布のような冷たさが貼り付いた。布団を跳ね上げても、部屋には私しかいない。ただ空気だけが片側へ流れ込んでいた。
母に話そうとスマホを開いた瞬間、背中の影が、先にこちらの言い分を聞くと言わんばかりに肌へ寄った。指が震え、呼吸が底へ滑る。私はまた黙った。
翌朝、母がふいに言った。
「親戚のお母様の寝たきりね。最初に倒れた日、庭に石を置いた翌朝だったらしいよ」
そのタイミングに、背中のひだが反応した。
「石の位置、覚えてる?」
「……うん」
母は湯呑を見つめたまま言った。
「あなた、小さい頃。その石の横で、ずっと立ってたことがあったんだよ」
記憶はない。ただ土の匂いだけが、耳の裏に残っている。
私は親戚に連絡し、家を訪ねることにした。
道を歩くと、昔の匂いが浮かぶ。土の湿り、金属の冷え、古い油の気配。身体の深層が思い出そうとしていた。
玄関の前で、背中のひだが広がる。吸う空気が、家の内側と混ざった。
扉が開いた瞬間、身体の奥で「ただいま」という声がした。私の声ではなかった。
家の中は昼なのに薄暗い。光が天井で途切れている。廊下を歩くと、足音のあとに、もう一歩分の気配が遅れて響いた。
背中の影が、家の空気に馴染み始めていた。
お母様の部屋で、視界が沈んだ。指が、ほんの少し動いた。親戚が声を上げた。
その瞬間、背中のひだが、満足したように震えた。
——石のそばの幼い私
——石を動かして消えた父の不調
——家がまっくらだった理由
全部が一本につながった。
この家は、私を待っていた。正確には、私の背中にあるものを。
親戚が言った。
「この家の縁の結び目がひとつ失われたって……戻らない縁があるって」
それは私ではない。私に寄り添っていたものだ。
幼い頃、縁側で泣いていた日。あのとき、絡まり出口を失った縁のひだが、私の背中に入った。
帰り際、背中が軽くなった。だが同時に、別の場所が空洞になったような感覚が残った。軽さの奥に、測れない重さが沈んでいる。
玄関を振り返ると、奥はもうまっくらではなかった。
ただ外へ出た瞬間、背中の皮膚が一度だけ、確かにひきつった。
まっくらだったのは、確かに私だった。
けれど——
それが全部、戻ったとは限らない。
軽くなった背中の内側で、まだどこかが、静かに縁を探している気配が消えなかった。
[出典:1733 :本当にあった怖い名無し:2020/05/12(火) 00:48:39 ID:4J0roIcg0.net]