今でも、あの午後の匂いを思い出すと、胸の奥で何かがざらりと崩れる。
乾いた校庭の砂塵と、日に焼けた鉄棒の鉄臭さが混じった、あの季節だけの空気だ。光はやけに白く、地面の反射が目の裏を刺していた。
私はドッジボールの円の外に立っていた。掌に汗がにじみ、短パンで拭う。息が乱れているのが分かり、それを悟られないよう肩をすくめて呼吸を整えた。周囲の声は遠く、胸の内側だけが妙に静かだった。
相手側の一人がボールを拾い、軽く腕を振る。その仕草は見慣れた日常の延長に過ぎないのに、私の体だけがわずかに強張った。視線の先、味方の同級生の輪郭が滲み始める。朱に寄った赤。照明フィルターを一枚重ねたような、不自然な赤みが、体の中心から滲み出していた。
喉の奥で、声にならないものを飲み込んだ。反射的に一歩踏み出すが、足裏は砂に沈むばかりで踏み切れない。
次の瞬間、乾いた音が空気を裂いた。赤い影をまとった同級生が肩口を打たれ、半拍遅れてよろける。その遅れに、説明できない誤差が生じた気がした。私の中にだけ、ほんの一瞬早い映像が差し込んでいたような感覚。
違和は皮膚の内側に薄い膜となって残り、体温だけがじっとり上がった。だが私は何も言わなかった。理由を問われても答えられなかったからだ。理解より先に色が現れ、結果が後から追いつく。その順序の狂いが、子供心にも後ろめたかった。
似たことは何度かあった。下校途中、狭い歩道の向こうから幼児が駆けてきたとき、光の粒がその腹のあたりで一瞬弾けた。夕方の光とは違う、人工的な白さ。胸が跳ねた直後、幼児はつま先を取られて転び、泣き声を上げた。
私は立ち尽くしていた。背中を汗が流れる。何も出来なかった後悔より、あの光が自分にだけ見えた可能性のほうが重かった。足は地面にあるのに、心だけが半歩遅れて宙に浮いていた。
成長するにつれ、色は見えなくなった。考えて判断する癖が、目の前の細部を鈍らせたのかもしれない。あるいは、子供の身体が勝手に差し出していた余計な注釈を、知らぬ間に切り捨てたのだろう。
それでも、引っかかりだけは残っていた。色は結果なのか、警告なのか。答えは出ないまま、時間だけが過ぎた。
最近になって、ふとした瞬間に視界の端を微かな色が横切った。風に押される火の粉のように、ほんの一瞬揺れて消える。
夕暮れの帰り道、電線の影が歩道に細く落ちていた。足取りは変わらないのに、踵だけが浮くような落ち着かなさがあった。気のせいだと片付けようとしたが、胸の奥に吸い込まれるような感覚が残った。
その夜、玄関で折り畳み傘に触れた。黒い布地に残る水滴。冷たさの中に、布とは違うぬめりが混じっていた。手を離すと、指先がじんじん痺れた。風呂に入っても痺れは抜けず、湯気の中で指先がぼんやり白く霞んだ。瞬きする間に消えたが、目を閉じても脳裏に残った。
翌日、職場で同僚に声を掛けられた。振り向くより早く、胸の奥が弱く脈打つ。視界の端で、同僚の手元が淡く赤む。すぐに薄れ、何事もなく書類が置かれる。紙束の角が破れ、舌打ちの音だけが残った。その破れ目に、赤の名残が漂った気がした。
昼休み、食堂の窓際で味噌汁をすすっていると、ガラスの向こうで幼い子が親に手を引かれて歩いていた。肩のあたりがかすかに青く揺れる。私の心臓が打つのと同時に、子の足がもつれ、親が支える。助かったはずなのに、網膜の裏で青が消えなかった。
夜、灯りを落とすと、天井の隅に明度の低い色が浮かんだ。赤でも青でもない、灰色に近い何か。輪郭は曖昧で、見失いかけると濃くなる。気配は静かに降り、枕元で止まった。誰かが立ったような圧だけが残る。
胸の内で、重い脈が一度鳴った。それに合わせて、布団の上の右手に淡い橙が灯る。皮膚の下で、小さな火種が呼吸しているようだった。天井の灰と、手元の橙が、同じ間隔で揺れる。
そのとき、理解した。
子供の頃に見ていた色は、外にあるものだった。
今、見えている色は、内側から滲んでいる。
寝返りを打つと、色は消えた。翌朝、冷たい空気を吸っても、内側に沈んだ橙の余韻は消えなかった。
通勤途中、スマホを見る男の肩が淡く赤む。色は消え、自転車が脇をかすめる。彼は気づかない。
その直後、駅の階段で、私自身の足元に薄い灰が揺れた。思わず手すりを掴んだ瞬間、背後から押され、体が前につんのめる。手すりがなければ、落ちていた。
色は外から来たのではない。
ずっと内側にあったものが、私を中心に広がり始めただけだ。
視界の端で、小さな橙がまた灯る。今度は胸のすぐ内側で。
私は立ち止まり、しばらく動けなかった。
どこまでが予兆で、どこからが私なのか、もう区別がつかなくなっていた。
[出典:605 :本当にあった怖い名無し:2012/06/25(月) 01:59:49.56 ID:8Zy1CXsh0]