塩の味が水になる
10月の終わりから、体が変だった。疲れが溜まってるのは自覚していた。
教習所に通い始めて、バイト先では同い年の男が遅刻と無断欠勤を繰り返して、俺が一人で早朝を回す日が増えた。レジが落ち着いた瞬間に品出し、発注、床拭き、雑務。眠気と苛立ちが一緒に胃の底に沈む感じが毎日あった。
その頃から、塩が欲しくなった。最初は普通の「しょっぱいの食いてえ」ってやつだ。ポテチ、カップ麺、あたりめ。夜に食って、朝にまた食って、仕事中に思い出して、帰り道でまた買う。そのうち、口が「味」を求めるんじゃなくて、体の中が「塩」を命令してくるみたいになった。
ある晩、台所で醤油を舐めた。次の日はマヨネーズを指につけて舐めた。それでも足りない。塩を指でつまんで、舌の上に置いた。しょっぱくて顔が歪むのに、足りない。怖くなって水を飲もうとしたが、コップを持ったまま置いた。喉が渇いてないわけじゃない。渇きがあるのに、水が入ってこない。口が開かない。味のないものが、体の中で弾かれるみたいだった。
コンビニの高校生、シゲオは、その頃から俺を見るたびに言った。「つかれてんな」敬語もクソもない言い方で、笑いもしない。俺が「どっちの意味だよ」と言い返すと、シゲオは返事をしないで、レジ横のガムを見てるふりをした。俺はその無視の仕方がいちいち気に障った。
11月に入ってすぐの朝、シゲオはいつものパックジュース一つで並んできた。高校生ラッシュが引き始めた時間で、俺の手がようやく落ち着いた頃だった。シゲオは金を出さずに、俺の顔だけを見て言った。「タクヤさ、最後に水飲んだのいつ」俺は「はあ」としか言えなかった。聞かれた瞬間に、思い出せないことが分かった。昨日の晩飯みたいに、そこにあるはずの記憶が抜けている。空白の場所を舌が探って、乾いた。
吐き気が来た。胃がひっくり返る前に、俺は呼び出しボタンを連打した。バックヤードから店長が出てくるのが見えた瞬間、「マジやばいです」とだけ言ってトイレに駆け込んだ。便器の前で、何も出ないのにえずき続けた。喉が痛い。口の中がしょっぱい。涙までしょっぱかった。
病院では即点滴だった。医者に「水分いつ取った」と聞かれて、俺は首をひねったまま固まった。「分かんねーです」と言ったら怒られた。塩を舐めてたなんて言えない。家に帰った俺は、ふらふら台所に行って塩を舐めた。舐めた直後に、喉が裂けそうに渇いた。渇いてるのに、また塩を舐めたくなる。自分の体が自分のものじゃない感じがして、背中が冷えた。
部屋に戻ってパソコンをつけた。立ち上がりが遅くて、イライラして電源を切って入れ直した。画面が暗いまま、部屋の窓が気になった。外の空気が欲しいわけじゃない。ただ、窓がそこにあることが、やけにうるさかった。
その時、メールが来た。シゲオからだった。いつも長文で意味不明な怖い話を送ってくるくせに、その日は一行だけだった。「窓開けんな」俺は笑いそうになった。なんだよそれ。命令かよ。返信で「猫入れるんもダメか」と打った。窓の外でドンと音がして、俺は反射で振り向いた。飼い猫が外から帰ってきて、窓ガラスに体当たりしていた。
シゲオから返信が来た。「ドアから入れたらいかんのか」頭いいな、と一瞬思ってしまったのが悔しかった。俺は玄関から猫を入れて体を拭いてやった。猫は落ち着いたが、俺の胸の奥の渇きだけが落ち着かない。水を飲むと、胃が「違う」と言う。塩を舐めると、体が「それだ」と言う。気持ち悪い一致だった。
洗濯物を取り込む時間になった。窓を開けないと無理だ。妹に頼むか迷っている間に、雨の音がした。大粒の雨が、ベランダの手すりとエアコン室外機を叩く音。迷っている暇はない。俺は勢いで窓を開けて洗濯物を引きずり込んだ。濡れないように腕で抱え込む。雨は確かに降ってる。音もする。冷たい匂いもする。
全部取り込んで、最後の一枚を引っ張った瞬間、雨が止んだ。
止んだ、じゃない。最初から降ってなかったみたいに、跡がない。道路にも屋根にも濡れた気配がない。俺の腕も濡れていない。洗濯物も、乾いてる部分と湿ってる部分が混ざっていて、どっちが現実か分からない。俺は笑って誤魔化そうとして、口の中がしょっぱくて笑えなかった。
部屋に入ろうとしたら、冷気が押し返してきた。暖房なんて入れてないのに、冬の冷蔵庫の前に立ったみたいに息が白くなる気がした。視界の端で、何かが動いた。黒い。丸い。ボールくらいの大きさ。見たくなくて、見ないふりをした。見ないふりをしたのに、目の端のそれが、さっきより近い。
玄関から出た。財布と携帯だけ持って外へ逃げた。鍵を閉めたつもりが、鍵が手の中にない。ポケットにもない。戻るしかない。ドアノブに手をかけて、開けて、すぐ閉めた。
いる。
何かが、玄関のたたきにある。黒くて、丸い。さっきより輪郭がはっきりしている。俺は息を止めてドアを閉め、妹の小さい自転車で駅まで行くことにした。走り出しても、黒い丸は目の端に出る。鳥居の上、電信柱の陰、塀の角、信号機の上。現れては消える。消えるたびに、口の中がしょっぱくなる。
途中のコンビニで塩味のポテチを買ってむさぼった。足りない。袋の内側に残った粉を舐めた。足りない。喉が乾くのに、足りない。
駅に着くと、夕方の帰宅ラッシュだった。高校生が溜まっていて、その中にシゲオがいた。俺の顔を見るなり、ため息をついた。「開けるなって言ったのに馬鹿だな」俺は怒鳴り返したかったが、喉が乾いて声が出ない。「分かりやすく言え」とやっと言うと、シゲオは俺の背後を指さした。
俺は振り向かなかった。振り向いたら終わる気がした。何が終わるのか分からないのに、終わる気がした。
「いいから」とシゲオが言った。いつもの軽口じゃない。妙に優しい声だった。俺はその優しさが一番怖くて、反射で振り向いてしまった。
黒い塊は、首じゃなかった。虫だった。虫、虫、虫。種類が分からないほど小さい虫が、びっちり重なって球になっていた。ひしめき合って、呼吸するみたいに脈打っていた。俺は声も出ずに後ずさった。
シゲオは笑った。「殺虫剤とか効くわけないじゃん」そう言いながら手を振ると、球がほどけた。虫は一匹ずつバラけるんじゃなくて、最初からそこに虫がいなかったみたいに消えた。空気だけが戻って、俺の喉の渇きだけが残った。
「塩、関係あんのか」と俺が聞くと、シゲオは一瞬だけ黙った。「あるよ」短く言って、それ以上は言わない。「水飲め」とだけ言った。
俺は駅の売店で水を二本買って一気に飲んだ。喉が焼ける。胃が痛い。それでも、体の中の命令が少しだけ静かになった。静かになったのが救いのはずなのに、俺は逆に怖くなった。命令が止まるなら、命令は最初からどこから来ていたんだ。俺の中じゃないなら、どこだ。
電車に乗って窓に映る自分の顔を見た。いつもと同じ顔のはずなのに、口元だけがやけに白い。塩を舐めたせいだと思った。手で拭った。拭ったのに白い。舌で舐めると、しょっぱくない。水の味がした。
家に帰る途中で、ふと気付いた。俺、今日から窓を「窓」と思ってない。開けるか開けないかじゃない。窓の前に立った瞬間に、どこかが決まってしまう感じがする。外の空気を入れる穴じゃなくて、何かが入ってくる口だ。
その夜、寝る前に携帯が震えた。非通知だった。拒否設定にしていたはずなのに、震えた。画面を見た瞬間に切れた。履歴には残っていない。バイブの余韻だけが指に残る。
俺は水を飲んだ。喉は潤った。でも口の中のどこか、舌の付け根の奥だけが、まだ塩を欲しがっていた。自分の欲じゃないみたいに。
翌朝、起きて一番に窓を見た。カーテンの向こうが明るい。俺は開けなかった。開けなかった理由を、誰にも説明できなかった。説明するために言葉を選んだ瞬間、窓が少しだけ近づいた気がしたからだ。
鳴らなかった電話
非通知に気づいたのは、妹が心霊スポットに行った夜だった。
妹はその日、バイト先の男の先輩三人と車で出かけた。行き先は、テレビで特集されたとかいうT山。幽霊より狼を警戒しろよと思ったが、全員親とも面識がある連中だったので、文句は言わなかった。ただ、帰りが遅くなるという連絡がなくて、それだけが気にかかった。
夜中の一時前、俺は自室でパソコンをつけていた。巡回していたサイトの内容は頭に入っていない。塩の件があってから、水は意識して飲んでいたが、体調が完全に戻った感じもしない。窓は閉め切っていた。理由は説明できない。ただ、開ける気がしなかった。
携帯が鳴った。出ようとした瞬間、切れた。非通知。間違いかイタズラだろうと画面を伏せた。数分後、また鳴った。取る前に切れた。非通知。少し嫌な感じがして、マナーモードにした。
それから一時間もしないうちに、点滅に気づいた。履歴を見ると、不在着信が十一件。全部非通知。時間はバラバラで、規則性がない。呼び出し時間も短い。鳴らして、切って、また鳴らしている。
気味が悪くなって、非通知拒否を設定した。これで終わりだと思った。
その直後、バイト先の先輩からメールが来た。シフト交換の相談だった。返信を打っている最中に、また携帯が震えた。非通知。拒否したはずなのに。通話ボタンを押した瞬間、切れた。
冗談半分で笑おうとしたが、笑えなかった。空気が変だった。部屋の中が静かすぎる。耳鳴りとも違う、無音が圧迫してくる感じがした。
一時半を過ぎた頃、妹から電話が来た。二時過ぎになるという。安心して電話を切り、電源を落とそうとした瞬間、画面が目に入った。
不在着信、二十三件。全部非通知。
マナーモードなのに、妹の電話以外は一度も気づかなかった。鳴っていない。震えていない。履歴だけが増えている。拒否設定は解除されていた。
俺は初めて、本気で怖くなった。何かが、携帯を使っている。そう思った。
頼れる相手が一人しか浮かばなくて、俺はシゲオにメールを送った。深夜一時過ぎ。非常識なのは分かっていたが、それどころじゃなかった。
五分で返信が来た。「塩でも撒いとけば?」一瞬で腹が立ったが、すぐ次の文が来た。「玄関の電気は消すな」理由は書いていない。聞いても、「見ないと分からん」とだけ返ってきた。
妹が帰ってきたのは二時半過ぎだった。何事もなかったように玄関を開けて入ってきて、俺が床に塩を撒いたら怒られた。俺は謝りながら、妹の後ろを見た。何も見えなかった。それが余計に怖かった。
その夜は、携帯を伏せて朝まで起きていた。
バイト先で携帯を開いて、背中が冷えた。不在着信百十二件。すべて非通知。拒否設定は、また解除されている。
バックヤードで固まっていると、夜勤明けの人に「友達来てるよ」と言われた。私服のまま店内に出ると、シゲオがいた。珍しくマフラーを巻いて、女の子と一緒だった。俺を見ると、シゲオは携帯を指さした。
画面を見せると、シゲオは笑い出した。声を殺すでもなく、普通に。理由を聞く前に携帯を返された。「大丈夫。今日中、いやバイト終わる頃には止まる」
妹のことを話すと、「車で行ったなら、そっちに行った可能性高いな」と言った。俺の家じゃないのかと聞くと、「今はな」とだけ返ってきた。
その後、俺の携帯の番号が、いつの間にか普通の番号に変わっていた。見知らぬ番号。かけ直すと、学校のチャイムみたいな音がして、シゲオの声が出た。
「授業中に何やってんだ」と言うと、「番号見たろ」と平然と言う。「お前の携帯経由で、ちょっと引っ張っただけ」
何をしたのか聞くと、「興味を移した」とだけ言われた。俺の携帯のままじゃ駄目だったのかと聞くと、「無理じゃないけど、壊れる」と言った。何が、とは言わなかった。
電話が切れたあと、俺は携帯を見つめた。画面は普通だった。着信は止まっていた。けれど、震えた感覚だけが、指に残っていた。
その日の夜、携帯を机に置いたまま寝た。電源は切らなかった。切ると、どこかに繋がれる気がしたからだ。
翌朝、携帯に触れた瞬間、何も起きなかった。それが一番不安だった。
視線が先に来る
去年の冬の話だ。
塩の件や非通知の前で、当時はただ気味が悪い出来事として片付けていた。今思い返すと、あれが一番最初に「入られていた」気がする。
その日、俺は学校帰りで、夕方のラッシュに巻き込まれていた。車内はぎゅうぎゅうで、吊革にも掴まれず、ただ流れに押し潰されないよう立っているだけの状態だった。顔を上げると誰かの肩、下げると誰かの鞄。視線の置き場がなくて、自然と斜め前を見ていた。
その時、手を握られた。
一瞬、期待した。正直に言う。痴女かと。だがすぐにおかしいと分かった。俺の手を握れる位置にいる人間は、両手がふさがっているはずだった。しかも、握り方が変だった。指を絡めるでもなく、掴むでもなく、ただ「確かめる」みたいな力。
振り払おうとしたが、身動きが取れない。顔を上げると、男だった。俺の前に立っている、小柄で、特徴のない男。年齢も分からない。スーツでも学生でもない。人混みの中に溶けるタイプの顔だった。
目が合った。
やたら近い。三十センチも離れていない。男は瞬きもしないで、俺の目を見ていた。怒っているわけでも、笑っているわけでもない。ただ、覗き込むように、観察するように。
気味が悪くなって視線を逸らそうとしたが、逸らせない。目を離した瞬間に何か起きる気がして、逆に縫い止められた。
そのまま、下車駅まで手を握られていた。
降りる直前、男は何も言わず、何のリアクションもなく、人の流れに消えた。俺の手には、冷たい感触だけが残った。冬とはいえ、異様に冷たかった。
家に帰って妹に話すと、笑われた。「それ、ただの変な人でしょ」俺もそうだと思った。実際、それ以降、何も起きなかった。だから忘れていた。
この話をシゲオにしたのは、塩事件のあとだ。
電車で一緒になった時、他愛ない雑談の流れで言った。シゲオは途中まで黙って聞いていたが、「目、見た?」とだけ聞いてきた。「見たけど」と答えると、露骨に嫌そうな顔をした。
「目を見るな」
反射でシゲオから目を逸らしたら、「俺のじゃねえよ」と怒られた。「じゃあ誰のだよ」と聞くと、少し間を置いて言った。「そっち系の」
説明を求めると、シゲオは自分の目を指さした。「目ってのは脳の一部だろ。生きてる間は色々くっついてるけど、死ぬとそこだけ残りやすい」
意味は分からなかったが、理屈としては妙に生々しかった。
「あの子らの中には、やたら目を使うのがいる。見てくるし、見させてくる。見返すと、線が繋がる」
線って何だよ、と笑おうとしたが、シゲオは笑わなかった。
「去年の冬、他にも変なことなかったか」
そう言われて、俺は思い出した。あの後、しばらくの間、満員電車で人の顔を見るのが怖くなったこと。視線が合うのが嫌で、スマホばかり見ていたこと。理由は説明できなかったが、「見られる側」になる感覚が、ずっと背中に残っていた。
「今は平気なのか」と聞くと、シゲオは首を傾げた。「平気って何を基準に言ってんだよ」
その日から、俺は満員電車で人の顔を見ないようにしている。広告を見る。床を見る。窓に映る自分も見ない。
それでも時々、視線だけが先に来ることがある。顔を上げる前に、誰かがこちらを見ていると分かる。そういう時は、絶対に見返さない。
見返さない代わりに、瞬きを数える。一、二、三。駅に着くまで、それを繰り返す。
最近、気づいたことがある。あの時、俺の手を握っていた男の顔が、どうしても思い出せない。特徴がないんじゃない。思い出そうとすると、目の部分だけが抜け落ちる。
代わりに浮かぶのは、自分の目だ。窓に映った、自分の目。
影が映らない
土曜日の昼だった。
バイト先の女子高生と映画を観に行くことになった。浮かれていたのは俺だけで、向こうは原作漫画が好きで一人で行くのもなんだし、という軽い理由だ。それでも俺は内心かなり救われていた。会話が漫画の話だけで済むのは楽だったし、沈黙が怖くない。
映画館は思ったより混んでいた。家族連れも多くて、土曜の昼らしい空気だった。エレベーターを降りた瞬間、閉めるボタンを押しかけてやめた。目の前に、シゲオと見覚えのある女子高生が並んでいたからだ。
逃げるほどでもない。そう思って声をかけたのが間違いだった。同じ映画を観るらしい。流れで四人並んで座ることになった。俺は通路側、隣にバイト先の女子高生、その隣にシゲオの連れ、端にシゲオ。
照明が落ちて、長いCMが始まった。場内はざわついていて、子供の声が目立つ。四、五歳くらいの子供が数人、通路を走り回っていた。親は止める気配がない。まあCMだしな、と自分に言い聞かせた。
本編が始まっても、子供は静かにならなかった。笑い声、足音。画面の前まで出てきて、跳ね回っている。さすがに係員が来るだろうと思ったが、来ない。
そこで、変だと気づいた。
子供がスクリーンの前に立っているのに、影が映らない。光を遮っているはずなのに、映像はそのままだった。俺は目を擦った。変わらない。子供は確かにそこにいる。動いている。だが、スクリーンには何の痕跡も残らない。
冷房が効いているとは思えないほど、急に寒くなった。隣を見ると、女子高生二人は映画に夢中で、何も気づいていない。シゲオも画面を見ている。助けを求める空気じゃない。
大丈夫だ。ただの見間違いだ。そう思って前を向いた瞬間、息が止まった。
前の座席の背もたれ越しに、子供の顔があった。距離は一メートルもない。普通の顔だ。どこにでもいる子供。楽しそうに笑っている。目が合った。
「ふふ」
声が聞こえた気がした。子供は少しずつ近づいてくる。俺の足元が冷える。動けない。顔を逸らすと、通路側にも子供が立っていた。可愛らしいポーズで、こちらを見ている。
逃げ場がない。
視線を下げると、椅子と椅子の間に、別の子供が体育座りで座っていた。見上げる目が、やけに大きい。口角が上がっている。
心臓が暴れた。叫びそうになったが、声が出ない。助けを求めるのも怖かった。隣に女子高生がいる。それだけが、かろうじて俺を現実に繋ぎ止めていた。
映画が終わるまで、俺は目を閉じていた。子供の笑い声と、時々腕や肩に触れる小さな手の感触だけが、やけに鮮明だった。触られるたびに、寒気が背骨を伝った。
照明が点いた瞬間、すべて消えた。
子供の姿も、声も、気配もない。周囲の客は普通に立ち上がり、映画の感想を話している。俺だけが、別の場所から戻ってきたみたいにふらついていた。
ロビーに出てから、ようやく息が整った。女子高生たちは映画の話で盛り上がっている。俺は内容をほとんど覚えていなかった。
駅へ向かう途中、シゲオの連れの女子高生が振り返って言った。
「タクヤさん、すごかったですね」
映画の話だと思って聞き返すと、首を振られた。
「違います。タクヤさんの周り、集まってたじゃないですか」
背中が冷えた。
後で聞いた話では、あれは地縛霊みたいなものらしい。憑いてはこないが、面白そうなものに集まる。止めようと思えば止められた、とシゲオは言った。
「映画より、よっぽど面白かったから」
そう言って、いつものように笑った。
その夜、風呂に入っていて気づいた。腕に、小さな指の跡みたいな赤い点がいくつも残っていた。掻いた覚えはない。触ると、ひやりとする。
翌日、映画館のサイトを見た。クレーム欄に、子供がうるさかったという書き込みはいくつもあった。でも、影が映らなかった、という話は一つもなかった。
それ以来、俺は映画館で子供の声がすると、無意識に目を閉じる。無邪気な笑い声ほど、信用できないものはないと知ってしまったからだ。
燃えた匂い
十一月の半ばだった。
その頃には、もう自分の身に起きる妙な出来事を「気のせい」で片付ける気はなくなっていた。慣れた、というより、疑う余裕が削れていた。窓は開けない。水は意識して飲む。視線は合わせない。理由は説明できないが、守らないといけない感じだけが残っている。
異変は、猫から始まった。
うちの猫は外に出るのが好きで、ドアを開ければ必ず出ていく。ところが、その日を境に、ドアを開けても外に出なくなった。鼻先を出して匂いを嗅ぐだけで、すぐに後ずさる。尻尾を膨らませることもある。
「家は結界みたいなもんだから」
シゲオの言葉が頭をよぎった。思い出したくなかったが、思い出してしまった以上、もう戻らない。俺はシゲオにメールを送った。珍しく、すぐに返事は来なかった。
その日の夜から、家の外に気配を感じるようになった。インターホンが鳴る。覗き穴を見ても誰もいない。ドアが叩かれた気がして開けると、何もない。カーテン越しに、人の影みたいなものが一瞬だけ通り過ぎる。
見えない。だが、いないとも言い切れない。
数日後、仕事中にシゲオが来た。来たが、店に入ってこない。ドアの前で立ち尽くし、口を半開きにして俺の方を見ている。視線の先は、俺の背後だった。
同じシフトの人間がいたので、俺は意を決して振り返った。何もいない。ふざけんなと思ってカウンターに戻った瞬間、背後確認用の小さな鏡に、黒い影が映った。人の形をしているようで、輪郭が定まらない。
心臓が跳ねた。だが、叫ぶわけにもいかない。俺は何事もないふりでおでんを仕込み続けた。指先が震えて、具材を落としそうになる。
結局、シゲオは店に入らず、外で待っていた。俺が上がって一緒に行こうと言うと、露骨に嫌そうな顔をした。数メートル先を歩きながら、何度も俺の背後を見る。
マックに入った。金がない俺は、一番安いセットを頼んだ。シゲオはほとんど食べず、ジュースを少し飲むだけだった。俺が無理やり食べさせると、シゲオはいきなり席を立ってトイレに駆け込み、全部吐いた。
戻ってきたシゲオは、目が赤かった。
「家族で油扱ってるやついる?」
唐突な質問だった。意味が分からず、俺は首を振った。次の瞬間、妹がガソリンスタンドでバイトしていることを思い出し、何気なく言った。
その途端、耳鳴りが始まった。
最初はキーンという普通のやつだった。それが一気に膨らんで、耳元で鉄板を潰すみたいな音になった。頭の中で誰かが喋っている気もした。言葉じゃない。ただ、潰れた音。
立っていられなくなり、視界が白くなる。鼓膜が破れそうで、歯を食いしばった瞬間、シゲオが目の前で手を叩いた。乾いた音が一つ。次の瞬間、耳鳴りが消えた。
店員が持ってきた水を、シゲオはわざとこぼした。俺のズボンにかかり、まるで失禁したみたいになった。恥ずかしさより、妙な安心感が先に来た。さっきまで、確実に何かが近くにいた。
店を出る頃には、気配は消えていた。
「妹さんに聞け」
それだけ言われた。
家に帰って妹に聞くと、最初は誤魔化された。だが、しつこく聞くと話してくれた。九月の終わり頃、妹の働くスタンドで売ったガソリンを使って、焼身自殺した人がいたらしい。詳しいことは知らされていない。ただ、ニュースにもならなかった。
黒い影。潰れた声。油の匂い。
全部が一本の線で繋がった気がして、同時に、その線を辿りたくないとも思った。
その夜、風呂に入って気づいた。ズボンはとっくに乾いているのに、油の匂いが消えない。石鹸で洗っても、鼻の奥に残る。
シゲオは、その後しばらく連絡をしてこなかった。
猫は、今も外に出たがらない。
気をつけてください
早朝のコンビニは、時間帯で空気が変わる。
七時四十五分から八時十五分。その三十分は戦場だ。すぐ近くに高校があるせいで、制服の波が一気に押し寄せる。レジ前は詰まり、床は鳴り、空気が一段うるさくなる。
常連客なら覚えられる。毎回同じタバコ、同じ缶コーヒー、同じ時間。顔と買う物が結びつく。でも高校生は無理だ。数が多すぎるし、流れが速い。条件反射で「おはようございます」と言うくらいが限界だった。
九月頃からだ。挨拶をしてくる高校生が現れた。
男子だ。礼儀正しいというより、迷いがない感じで、俺の目を見て「おはようございます」と言う。同僚に聞いても「挨拶?されたことない」と言われた。知り合いでもない。妹に聞いても知らない。なのに、俺のシフトの日だけ、必ず来て挨拶する。
気味が悪いほどではなかった。ただ、引っかかった。
十月に入って、挨拶以外のことも言うようになった。「雨強いですね」「早起き大変ですね」その中で、一度だけ変なことを言った。「日曜日まで早起きとか、きついですよね」
俺は日曜休みだ。その日は気にも留めず流した。ところが、その週の日曜、店長から呼び出されて出勤した。偶然だと思ったが、胸の奥に小さな棘が刺さった。
その日、部活帰りらしい高校生が来た。レジの最後尾に並び、俺の前で頭を下げた。会計を終え、お釣りを渡そうとした時、手を出さずに立っている。
「すみません」と言って差し出すと、真顔で言った。
「気をつけてください」
意味が分からなかった。電波かと思って、俺はお釣りをカウンターに置き、早口で礼を言ってレジを離れた。
その日の午後、家に帰ると、鍵が開いていた。珍しいことじゃない。実家だし、家族が出入りする。だが家に入った瞬間、異様に寒かった。十月とは思えない冷え方だった。
猫が威嚇していた。何もない空間に向かって。
パソコンをつけようとして、背後に女の顔を見た気がした。目をこすったら消えた。気のせいだと自分に言い聞かせて、家を出た。
翌日、腹痛と寒気が続いた。高校生は来なかった。祝日だった。
帰り際、駐輪場で声をかけられた。
「おはようございます」
私服なのに、俺だと分かっている。無視するわけにもいかず挨拶を返すと、「大丈夫ですか」と聞かれた。
我慢が切れた。
「君さ、俺と知り合いじゃないよね。気をつけろとか大丈夫とか、意味わかんないんだけど」
高校生は動じなかった。
「見えちゃうから」
逃げるべきだと本能が叫んだが、口が先に動いた。「何が」
少し黙ってから、高校生は言った。「電車だと思う」
その言葉と同時に、数日前の人身事故と、女の崩れた顔を思い出した。次の瞬間、顔に塩を投げつけられた。
「タツヤは他人だし、たまたま同じ電車に乗ってただけだから。このくらいで落とせるよ」
俺は何も言えず、自転車に乗って逃げた。
腹痛はその日を境に治まった。寒さも消えた。猫も普通に戻った。
翌日、高校生はまた来た。
「良くなっただろ」
俺は答えなかった。聞かなかった。聞くと、何かが始まる気がしたからだ。
それからしばらくして、高校生は言った。
「今、不安定な時期だから。憑かれやすい」
頭から離れなくなったのは、その言葉じゃない。
俺は今でも、早朝のレジで高校生が並ぶ時間帯になると、無意識に視線を落とす。誰かと目が合うのを避けている。
あの時、俺が「気をつけてください」と言われなかったら、今の俺はどこまで普通でいられたのか。それを考え始めると、レジのカウンターが少しだけ近く感じる。
説明しない理由
最後に、これは出来事じゃない。
今も続いている、変化の話だ。
あれ以降、何も起きていない。
少なくとも、分かりやすい形では。
塩を舐めたくなることもない。
非通知の着信も止まっている。
映画館に行っても、子供は普通に騒ぐだけだ。
猫は外に出るし、窓も昼間なら開けられる。
ただ、戻っていないものがある。
自分が「安全だ」と判断する感覚だ。
何かをする前に、必ず一拍置くようになった。
窓を開ける前。
水を飲む前。
電話に出る前。
視線を上げる前。
理由は説明できない。
説明しようとすると、どこかで言葉が歪む。
歪むと、開く。
だから説明しない。
シゲオとは、ほとんど会わなくなった。
忙しいらしい。
それが本当かどうかは分からない。
コンビニにも来ない。
番号も、いつの間にか消していた。
それでも、たまに思う。
あいつがいなくなってから、本当に安全になったのか。
それとも、あいつがいたから、まだ境目が見えていただけなのか。
朝のレジで、高校生が並ぶ。
誰も挨拶しない。
誰も目を見ない。
それが普通だ。
なのに、ふとした瞬間、
「気をつけてください」と言われた気がして、
無意識に手を止めてしまう。
何も起きない。
起きないからこそ、怖い。
何かが起きていない状態が、
ずっと続いているだけかもしれないからだ。
俺は今も、
理由のない習慣をいくつか守っている。
窓を全開にしない。
非通知には出ない。
満員電車で目を合わせない。
塩の味を、必要以上に意識しない。
誰かに説明を求められたら、
多分、笑って誤魔化すと思う。
説明できないことは、
理解された瞬間に、入ってくる。
これは怪談じゃない。
終わった話でもない。
ただ、
気をつけるようになった話だ。
(完)
[出典:コンビニ店員シリーズ/オマージュ]