小学生の頃、近所の英語塾に通っていた。
田舎町では少し浮いた存在だった。日英ハーフの先生が、自宅を改装して開いていた塾で、授業はすべて英語。先生は町の大人たちとは雰囲気が違い、髪も瞳も明るく、どこか遠い場所から来た人のように見えた。子どもだった僕は、ただ「都会の匂い」がする人だと思っていた。
卒業の春、恒例の記念旅行があった。先生と娘さん、そして塾生十三人で海沿いの貸別荘へ泊まる。男女一緒の宿泊というだけで、胸が浮ついた。浜辺で遊び、英語だけで会話し、夕方には全員でカレーを作った。崖に沿うように建つロッジの大きな窓からは、橙色の夕日が海面を焼いていた。
夜十時、就寝。女子は天窓のある部屋へ、男子は隣の六畳間へ。先生と娘さんは廊下向かいの小部屋だった。
真夜中、悲鳴が上がった。
僕らは反射的に飛び出し、女子の部屋へ駆け込んだ。ひとりの女の子が泣き崩れ、天窓を指差していた。眠りかけたとき、「キコ……キコ……」と木が軋む音がして、目を開けると、天窓の外に男の顔があったという。両手で窓枠を掴み、ゆっくりと揺らしていた、と。
先生が椅子に乗って鍵を確かめた。古い木枠の錠は半分ほど外れていた。夜風が入り込み、カーテンが揺れている。天窓の向こうは闇だった。
管理人室へ電話をかけようとしたが、呼び出し音は鳴らなかった。受話器の奥は、ただ静かだった。
先生は玄関のパラソルを握り、ひとりで飛び出した。娘さんに「誰が来ても開けないで」と言い残して。
残された僕らは先生の部屋に集まり、身を寄せ合った。廊下のどこかで、微かな音がした気がしたが、誰も確かめようとはしなかった。
やがて先生は戻ってきた。管理人と一緒だった。警察も来たらしい。何人かが敷地を見回ったが、侵入者の姿は見つからなかった。天窓の外にも足跡はないと言われた。
「夜の見間違いかもしれない」
そう誰かが言い、話はそれで終わった。
翌朝、先生は淡々としていた。あの少女も口を閉ざした。天窓の鍵は直され、旅行は予定通り終了した。
それから長い年月が経った。
帰省の折、ふと先生の家を訪ねた。白髪の混じった先生は相変わらず穏やかで、娘さんは海外で暮らしていると聞いた。思い出話の流れで、あの夜のことを切り出すと、先生は少しだけ目を伏せた。
「あのときね」
そう前置きしてから、ゆっくり話し始めた。
別荘を飛び出して山道を走ったとき、背後で草を踏む音がした。並走しているようだった、と。管理人室の灯りを目指して走り続け、窓を叩いた。出てきた老管理人は、先生の顔を見るなり、一瞬だけ硬い表情をしたという。
「電話線が外れていました」
先生はそう言った。管理人は黙っていた。理由は聞かなかったらしい。
「戻るとき、誰かが林の中に立っている気がしたの」
気がした、と先生は言った。
警察は何も見つけなかった。天窓の外にも、屋根の上にも、痕跡はなかった。
先生は最後にこう付け加えた。
「でもね、あの子が見た顔……」
そこで言葉を止めた。
「あれ、私、どこかで見たことがある気がするのよ」
誰の顔だったのかは言わなかった。管理人か、その家族か、あるいはもっと前に会った誰かか。先生自身も思い出せないと言った。
帰り際、ふと気になって尋ねた。「あのとき、本当に鍵は外れかけていたんですか」
先生は少し考えてから答えた。
「私が触ったときは、そう見えたわ」
そう見えた、という言い方だった。
あの別荘はもうない。取り壊され、今はキャンプ場になっているらしい。だが写真を調べると、似た形のロッジがまだ残っている。天窓のある部屋もある。
あの夜、少女が見たのは本当に外にいた誰かだったのか。電話線を外したのは誰か。管理人が浮かべた表情は何だったのか。
そして何より、先生が「どこかで見た」と言った顔は、誰のものだったのか。
思い出そうとすると、あのときの夕日の色が浮かぶ。橙色の光が窓から差し込み、海を染めていた。
あの天窓の向こうにも、同じ色の空が広がっていたはずだ。
もし今、あの場所に立ったら、夜の天窓を見上げるだろうか。
見上げたとき、そこに顔がないと、言い切れるだろうか。
[出典:422 :本当にあった怖い名無し:2019/06/22(土) 20:47:08.16 ID:bXU39MlB0.net]