自分も『ヨウコウ』と似た体験をしたことがある。
当時は、じいさまが子供を怖がらせるために言った戒めだと思っていた。だが『ヨウコウ』を読んでから、もしかすると自分も境目に触れていたのではないかと思うようになった。
私がまだ小さい頃の話だ。
ある晴れた日、じいさまに連れられて裏山へ山菜取りに行った。舗装された道が途切れ、さらに少し奥へ入ったところに、ひょろりとした杉の木が一本立っていた。道の脇だが、不自然なほど目につく木だった。
じいさまは立ち止まり、その杉の根元にコップを置いた。中には酒が入っていた。根元はちょうど、前からそこに置くために削られたかのように窪んでいた。
じいさまは酒を置き終えると、私の顔を見下ろして低い声で言った。
「山では喋るな。喋るとバケモノが来て、お前を喰う」
冗談には聞こえなかった。私はうなずき、そのまま黙って山菜取りを始めた。
しばらくは真面目に手伝っていたが、子供の集中力は長く続かない。やがて小川のような場所でイモリを見つけ、すっかり戒めを忘れてしまった。
「じいちゃん。こんなところにイモリがいる」
言い終えた瞬間、世界が止まった。
風の音が消え、鳥の声も消えた。水の流れる気配すらなくなり、音という音が抜け落ちた。耳がおかしくなったのかと思ったが、違った。音が消えたのではなく、最初から無かったような静けさだった。
私は訳も分からず立ち尽くした。
一拍遅れて異変に気づいたじいさまは、何も言わず私を小脇に抱え、ものすごい勢いで走り出した。ふもとへ向かって、道を外れることなく一直線に。
走り始めて間もなく、音が戻ってきた。
いや、戻ったのではない。追ってきた。
ザワザワザワザワザワザワ。
薮を渡る風の音を何十倍にもしたような、不規則で生々しい音だった。それが背後から迫ってくる。
私は恐怖よりも好奇心が勝ち、じいさまの腕にしがみついたまま無理に首を捻って後ろを振り返った。
最初、道が消えたように見えた。
次に、それが薮ではないと分かった。
薮のように見える、巨大で、毛むくじゃらの何かが、地面を覆うように押し寄せてきていた。形は分からない。ただ、毛の塊が生き物のように動いていた。
その瞬間、恐怖が遅れてやってきた。私は泣き叫んだが、じいさまは振り向きもせず走り続けた。
ザワザワザワザワザワザワ。
追いつかれる、そう思った瞬間、急に視界が開けた。山が終わり、空が見えた。
そこから先の記憶がない。
気づくと家にいた。布団に寝かされていて、じいさまも近くにいた。何かあったのだと分かっていたが、なぜか口に出してはいけない気がして、そのまま二十年以上が過ぎた。
じいさまはその後も普通に暮らし、ほどなく死ぬようなこともなかった。あの日のことなど無かったかのように、また山へ入り、山菜取りも続けていた。毎回、コップ酒を持って。

ただ一度だけ、気になって聞いたことがある。
「あの杉の木のところに置いた酒、どうなったの」
じいさまは少し考えるような顔をしてから、首を横に振った。
「見てない」
それきり、その話は終わった。
私はあの日を境に、理由もなく毛虫が異常に嫌いになった。今でも山に入ろうとすると、背中の方でザワザワと音がする気がして、どうしても足が止まってしまう。
あのコップの酒が、空だったのか、まだ満ちていたのか。
それを確かめた人間はいない。
[出典:360 :あなたのうしろに名無しさんが…:04/02/02 22:35]