これは、数年前にアルバイトしていた工場で実際に経験したという男性から聞いた話だ。
その工場は四階建ての古い建物で、稼働しているのは一階と二階のみ。三階と四階は倉庫として使われていたが、十数年前に施錠されたまま放置され、鍵も紛失したという。社員たちの間では「上は触るな」という暗黙の了解があり、何が置かれているのか、誰も正確には覚えていなかった。
ある日、普段使っているエレベーターが故障し、長年放置されていた貨物用エレベーターが使われることになった。何十年も動いていなかったはずなのに、電源を入れると異様なほど静かに動き出した。
点検していた社員が、操作盤を見てぽつりと呟いた。
「三階と四階のボタンも生きてるな……まぁ、押しても動かんだろ」
その一言で、アルバイトの学生たちは同じことを考えた。
――もしかしたら、上に行けるんじゃないか。
休憩時間、社員がいなくなった隙を狙い、彼らはジャンケンで探検役を決めた。四階はA、三階は語り手の彼。小さな懐中電灯を持ち、二人でエレベーターに乗り込む。
鉄の扉が閉まり、重たい沈黙が落ちる。
三階で止まった。
扉が開いた瞬間、ひんやりとした空気とカビの匂いが流れ込んできた。Aが背中を押す。
「じゃ、行ってこいよ」
扉が閉まり、エレベーターは無音のまま上へ向かった。
三階の倉庫は、がらんとしていた。埃をかぶった机、崩れかけの段ボール、剥がれた「禁煙」の張り紙。照明は点かず、懐中電灯の光だけが床をなぞる。
壁伝いに進み、彼は窓に行き当たった。
外が、妙に明るい。
月明かりだと思ったが、光は異様に強く、近い。窓のすぐ内側から照らされているように見えた。
その窓枠に、ひとつだけ、てるてる坊主が吊るされていた。
白い布は黄ばんでいて、結び目の形が人の顔のように見える。
目なのか、染みなのか分からない黒い点が二つあり、こちらを見ている気がした。
理由もなく、彼は寒気を覚えた。
やがてエレベーターが戻り、二人は何事もなく二階へ帰った。仲間に話しても、特別盛り上がるような内容ではなく、探検の話はそれきりになった。
仕事終わり、工場を出てしばらく歩いたところで、Aが急に立ち止まった。
「なあ……今日、月、出てたか?」
その一言で、彼も気づいた。
あの夜、空に月はなかった。雲もなかった。ただ暗かった。
工場を振り返った二人は、同時に言葉を失った。
三階にも四階にも、窓はなかった。
外壁は一面コンクリートで、開口部などどこにも存在しない。
見間違いだと否定する余地すらなかった。
その瞬間、背中に冷たいものが這い上がる感覚がした。
二人は何も言わず、その場を離れた。
それから数日後、Aがぽつりと呟いたことがある。
天気予報を見ながら、独り言のように。
「……雨、降らなきゃいいけどな」
それが最後だった。
彼はほどなく工場を辞め、Aも数週間後に姿を消した。理由は誰も知らない。
今でも彼は思い出す。
窓のないはずの階で見た光。
吊るされていた、あのてるてる坊主。
――何の天気を、願っていたのか。
それを考え始めると、どうしても眠れなくなるのだという。
(了)