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仏の中のもの r+4,187

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初めて海外へ出たのは、二十代の終わりだった。

行き先は中国、浙江省の杭州。湖と山に抱かれた古都で、観光地としても有名な場所だった。いま振り返れば、どうしてあの旅行が人生の転機になったのか、自分でもまだ整理できていない。けれど、あの寺院で見たもの、そしてその後に体験したことを考えると、あの数日がただの観光旅行だったとは到底思えないのだ。

ツアー参加者は二十人ほど。私を含めて皆、日本から来た観光客だった。現地の日本語ガイドが付き、バスに乗って各所を巡るというありきたりな行程だった。杭州の空気は湿り気を帯びていて、街の中心に広がる西湖の水面は、どこか重たい雲を映し出していた。季節は夏の終わり。じっとりとした暑さの中、寺院を巡るのは正直少々骨が折れた。

その寺は、幾つものお堂が連なっている広大な敷地だった。門をくぐると、どこからともなく香の匂いが漂い、観光客のざわめきに交じって、僧侶たちの低い読経の声が風に乗って響いてきた。苔むした石段を登り、赤い柱の並ぶ回廊をくぐると、仏像を祀った堂がいくつも建っている。そのひとつに入ったとき、私は妙なものを見てしまった。

堂の奥には、大きな金色の仏像が安置されていた。観光客は皆、携帯やカメラで写真を撮り、賽銭を投げては軽く手を合わせていた。私も何の気なしに近づき、仏像を眺めた。光沢のある金箔が薄暗い堂内で鈍く光り、顔は笑っているようにも、怒っているようにも見えた。そのときだった。仏像の胸のあたりから、影のようなものがふわりと浮かび上がった。

最初は煙かと思った。線香の煙がゆらゆら揺れているのだと。だがそれは次第に形を持ち、輪郭がはっきりしていく。背筋がぞわりとした。煙ではなかった。異様に手足の長い僧侶が、そこから這い出てきたのだ。

骨ばった腕は人間の倍ほどあり、足も長すぎてバランスが狂っていた。頭には僧帽、衣は古びて擦り切れていた。けれど、肌の色は死人のように土気色で、目は濁ったまま焦点を結んでいなかった。そいつは私の方を向き、体を左右に揺らしながら近づいてきた。周りの観光客は誰も気づかない。ガイドも仲間たちも、平然と仏像を見上げている。私だけが見えているらしかった。

その僧侶は、唇をかすかに動かした。声が聞こえてきた。中国語だった。私は少し中国語を学んでいたので、意味を拾うことができた。

「……名前は……どこから来た……ここで何をしている……」

声はぼそぼそとして、風の音と混じって聞き取りにくかった。だが確かに私に問いかけていた。恐ろしいはずなのに、不思議と心は冷静だった。なぜか「答えてはいけない」と直感したのだ。反射的に近くにいた仲間の腕をつかみ、仏像の方を指差した。けれど指差す先を少しずらし、その後ろに広がる山の景色を示すようにして「きれいね」と声をかけた。仲間も景色だと思い「本当だ」と頷いた。

その間も僧侶は、私の顔にまで迫ってきた。唇が触れる寸前まで近づき、冷たい息が頬をなでた。吐息は湿った土の匂いがした。だが私は表情を変えず、視線をそらして無視し続けた。心臓は激しく打っていたが、表に出さぬよう努めた。僧侶はそれでも中国語で問いかけ続けた。「どこから来た……名前は……答えろ……」

私は答えなかった。すると僧侶はふいに動きを止め、首をわずかに傾け、こう呟いた。

「……見えていれば……帰らせなかった……」

その言葉を最後に、僧侶の体は再び仏像の中へと沈んでいった。影のように溶け込み、何事もなかったかのように消えた。途端に鐘の音が響き渡った。僧侶たちが堂に入ってきて、読経の支度を始めた。ガイドが私たちを促した。「そろそろ読経が始まるようです。邪魔にならないよう外へ出ましょう」

私は皆に続き、堂を後にした。振り返ると、僧侶が消えた仏像の前に修行僧たちが並び、深々と礼拝していた。胸が凍る思いがした。あれは本当に仏なのか。この人たちは、あれを拝んでいるのか。それとも彼らも見えているのか。もし見えているのなら……彼らは一体何を信じているのか。

旅行はその後も続いた。だが私は気が気でなかった。ツアーの三日目、危うく命を落とすような出来事に遭った。バスの運転手が急ブレーキをかけ、私たちを乗せた車は崖に落ちる寸前で止まった。ほんの数秒の差で助かった。もしあれが僧侶の言葉の通りだったら……私は「帰らせなかった」存在に捕らえられていたのではないか。

日本に帰国できたのは、奇跡のように思えた。だが恐怖は終わらなかった。帰国して三日後、テレビをつけると、中国各地での大規模な抗日デモが報道されていた。車をひっくり返す群衆、旗を振り叫ぶ人々の映像が映し出されていた。あのとき私がうっかり「今、僧侶が……」と誰かに告げていたらどうなっていたのか。名前を答えていたら、出身を答えていたら。あの長い手足に捕まれ、二度と帰国できなかったのではないか。

いまも夢に見る。あの堂の暗がり、金色の仏像から抜け出してくる異形の僧侶。顔がすぐそこまで近づき、ぼそぼそと私の名を問う声。目覚めても、まだ頬にあの湿った息の感触が残っているような気がして、眠れなくなる。

あれは幻覚だったのか。疲労と緊張から見た幻だったのか。けれど私は知っている。あれは確かに存在した。僧侶が残した一言――「見えていれば帰らせなかった」――それが今も耳から離れないのだ。

[出典:305 :本当にあった怖い名無し:2015/05/09(土) 19:11:02.36 ID:Fk5mkV6fO.net]

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