二十年以上前、俺は治験のアルバイトに応募した。
一ヶ月弱で四十万円以上。フリーターだった俺にとっては、それだけで十分な理由だった。参加者は十人。都内で事前検査を受け、問題なしと判定された者だけが、本試験の施設に送られる仕組みだった。
向かった先は、県境に近い何もない土地だった。新幹線で二時間、そこから車でさらに一時間半。畑と林しかない場所に、やけに高い塀で囲まれた敷地があった。建物は白く無機質で、窓は細い。軍の研究施設と言われた方が納得できる外観だった。
到着してすぐ、俺たちは敷地の一角で待機させられた。
そのときだった。
「んぐぐあ゛あ゛ああああああ」
喉が裂けたような叫び声が響いた。振り向いた瞬間、二メートルは優に超える男が走ってくるのが見えた。顔が異様に腫れ上がり、皮膚が引き攣れている。目だけが異様に澄んでいた。
一人が体当たりされて吹き飛ばされた。警備員が三人、さらに増援が来て、最終的に十人以上で押さえ込んだが、その間、男はずっと俺たちを見ていた。暴れているのに、視線だけが妙に静かだった。
その後、何事もなかったように受付が始まった。
説明は簡単だった。毎日二時間の点滴、三回の採血。外出は禁止。途中辞退は原則不可。契約書には細かい条項が並び、俺は深く読まずに署名した。既に前金を受け取っていた。
宿泊施設は二階。ベッドが並ぶ部屋と畳の部屋があるだけだった。窓は開かない。テレビは地上波のみ。外との連絡は、決められた時間に公衆電話を使う形だった。
最初の一週間は何も起きなかった。
だが八日目、顔に違和感を覚えた。むくみだ。寝不足かと思ったが、他の連中も同じだった。十人全員の頬が腫れ始めていた。
三日後には、別人のような顔になった。
AとBは治験経験者で、「普通は中止になる」と何度も医師に訴えた。しかし医師は血液検査の数値を示し、「異常はありません」と繰り返すだけだった。
夜中、サイレンが鳴った。
窓の外で、参加者の一人が取り押さえられていた。
「イヤだ、帰らせてくれ」
そう叫んでいたが、声は途中から変わった。最初に見たあの男の声に似ていた。
翌朝、その参加者のベッドは空だった。説明はない。
二週間が経過した頃、鏡に映る自分の顔を見て、俺は最初の男を思い出した。腫れ方が似ていた。皮膚の張り方、目の位置、顎の角度。
Aが言った。
「これ、治験の経過観察じゃない。完成形の確認だ」
意味は分からなかったが、その夜、俺とA、B、Cは脱出を決めた。シーツを結び、二階の窓から降りた。塀を越えたとき、サイレンが鳴ったが、振り返らなかった。
駅に着いたのは朝だった。金は足りず、鈍行を乗り継いで帰った。
帰宅した夜、電話が鳴った。
「点滴の時間です」
低い声だった。
「一日でも抜けると、進行が不安定になります。今から戻れば調整できます」
俺は電話を切った。
だが、その翌日から高熱が出た。十日間、意識が曖昧だった。夢の中で、あの施設の白い天井を何度も見た。点滴の冷たい液体が腕に落ちる感覚もあった。
目を覚ますと、自宅の布団だった。
むくみはゆっくりと引いていった。
一ヶ月後、鏡に映る顔は元に戻っていた。
そう思っていた。
ある日、免許証の更新に行った。新しい写真を受け取ったとき、違和感があった。目が、少しだけ遠い。
古い免許証を見比べた。
腫れている。
今の顔ではない。だが、あの施設で見た完成形に近い。
点滴を受けていた時間になると、今でも腕が疼く。時計を見なくても分かる。
契約書の控えは捨てたはずだが、引き出しの奥からときどき紙の擦れる音がする。
電話はもう鳴らない。
だが、夜中にふと目を覚ますと、白い天井が近い気がする。
残った六人がどうなったのかは知らない。
ただ、あの最初の男の目だけは覚えている。
暴れていたのに、あれは逃げようとしていなかった。
俺たちを見ていた。
まるで、自分の次を。
[出典:864: 本当にあった怖い名無し:2011/06/18(土) 17:12:54.71 ID:n44yFbow0]