職場の同僚から聞いた話だ。
彼が幼い頃、県営住宅の七階に住んでいた。
同じ棟には同年代の子どもが多く、放課後はいつも五、六人で集まって遊んでいた。エントランスや共用廊下は絶好のコースだった。RCカーやミニ四駆を走らせ、タイヤの音を響かせる。それが日常だった。
ただ一つ、守らなければならない決まりがあった。
七階の端、東条という表札の前では遊ばないこと。通るときも走らず、声を出さないこと。
理由は誰も説明しなかった。親も、上の階の住人も、ただそう言うだけだった。
それでも子どもたちにとって、その場所は格好の標的になった。扉の前で騒ぐと、すぐに中から女が出てくる。無表情のまま、足音も立てずに追いかけてくる。怒鳴りもしない。ただ追ってくる。
逃げ切れば勝ちだった。
ある日、ガキ大将が言い出した。
「今日は扉の前で走らせようぜ」
皆が笑った。彼だけが笑えなかった。だが、輪から外れる勇気はなかった。
RCカーは甲高い音を立てて廊下を走った。東条の扉の前を通過する。
次の瞬間、扉が開いた。
音はしなかった。
仲間は一斉に逃げ出した。彼は最後尾だった。前の子がRCカーを拾い上げるのにもたつき、流れが止まった。
振り向いたとき、女はすぐ後ろにいた。
腕を掴まれる。
「捕まえた」
感情のない声だった。
その手には包丁があった。
抵抗できなかった。引きずられるように室内へ入る。扉が閉まる音が、廊下よりも遠くに聞こえた。
通されたのは仏間のような部屋だった。窓はあったはずなのに、光が入らない。積み上げられた布団が壁のように囲み、空気が重い。外の音が一切しなかった。
泣き続けた。
やがて女は握り飯を差し出した。
「食え」
白い塊は、何の匂いもしなかった。口に入れても味がなかった。飲み込めず、畳の上に置いた。
時間が伸びた。
眠ったのか、気を失ったのか、分からない。目を開けても同じ暗さだった。女はときどき現れ、何も言わずにこちらを見るだけだった。包丁は、いつも見える位置にあった。
玄関で声がした気がした。母の声に似ていた。だが、扉は開かなかった。
代わりに、奥から別の声がした。
「もう帰してあげようよ」
若い女の声だった。
東条はしばらく動かなかった。それから、彼の腕を引き、立たせた。
次に覚えているのは、部屋に警察官が立っている光景だった。母が泣いていた。
何日経っていたのか、誰もはっきり言わなかった。学校に戻ると、授業は進んでいた。保健室で話をする時間が増えた。
彼は成長し、いまはその話を淡々と語る。
だが、母に触れると、表情が変わるという。
あの部屋に、何があったのか。
なぜ包丁を持っていたのか。
なぜ扉は、すぐには開かなかったのか。
そして何より、なぜ彼だけが捕まったのか。
彼は理由を知らない。
だが七階の廊下を通る夢を、いまも見るという。
東条の扉の前で、RCカーが止まっている。
その向こう側から、こちらを見ているのは誰なのか。
それが東条なのか、自分なのか、分からないまま、扉がゆっくり開く。
今度は、逃げる順番が決まっていない。
(了)