十一月になるたびに、どうしても思い出してしまう話がある。
私が高校二年生の終わり頃、大学受験を控えて塾に通い始めた。
理系のくせに数学が壊滅的で、「これはマズい!」なんて言いながら、かなり焦っていた記憶がある。
高校三年生になり、苦手な古典の授業を選択した。その授業は文系と理系の合同で……そこで、文系の男子生徒『貞男』と関わることになった。
いや、関わると言うより、一方的にプチストーカーされた、というのが正しい。
ストーカーといっても、陰湿なタイプだった。
例えば、自習室でわざわざ隣の席に座ってきて、じっとこちらを見てくる。内心『こっち見んな!』って叫びたくなる感じ。
塾のビルは階によって男子トイレと女子トイレが分かれているのに、私が女子トイレから出ると、なぜか彼がその階にいて、こちらをうかがっている。
古典の授業では、必ず私の真後ろの席に座り、授業中に椅子をコツコツと蹴ってくる。
そして、うっかり目が合ってしまった時。彼は、にまぁ……っと口角を上げて笑うのだ。
申し訳ないけれど、それが本当に気味が悪くて、怖かった。
私は女子校育ちで、別に彼氏が欲しくて塾に来ているわけじゃない。浪人は絶対に許されない状況で、とにかく必死だった。
だから、塾にいる間だけとはいえ、彼にまとわりつかれるのは、心底うんざりしていた。見かけるだけでストレスが溜まる、そんなレベルだ。
同じ高校の子に「もしかして彼氏?(笑)」なんてからかわれたこともあったけど、「絶対に違う!」と強く否定した。事実、そうだし。
その否定が、どうやら間接的に貞男の耳に入ったらしい。
すると今度は、あからさまに私を睨みつけてくるようになった。
とはいえ、まとわりつく行動自体はやめなかったけれど。
さすがに嫌気がさして、塾の自習室を使わず、近くのマクドナルドで勉強するなどして、彼から距離を取るように工夫した。
塾の先生に相談することも考えたけれど、事がこじれて余計に面倒になるのが嫌で、結局、放置することにした。
幸い、受験勉強はどんどん忙しくなり、自然と貞男のことを意識する時間は減っていった。ほとんど忘れかけていた、と言ってもいい。
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十一月。模試を翌日に控えた、ある土曜日の夜のことだった。
その日は理系数学の授業があり、終わったのはもう遅い時間だった。「やれやれ、疲れた……明日の模試、どうしようかなぁ」なんて考えながら、塾のビルを出た。
いつもは友達と一緒に帰るけれど、土曜日は授業が違うため、一人で帰ることが多かった。夜道は少し怖いから、自然と足早に駅へ向かう。
塾のビルを出て、少し歩いたところで、突然、全身に鳥肌が立った。
普通ならすぐに収まるはずのそれが、妙に長く、6秒くらい続いただろうか。ゾワゾワッという感覚が背筋を駆け上る。
同時に、突き刺すような視線を背中に感じた。
後ろを振り向くべきか、一瞬ためらった。けれど、そのまま進むのも怖くて、右手に持っていたカバンをぎゅっと握りしめた。(いざとなったら、これで殴ってやる!)
意を決して、バッと振り返る。
そこにいたのは、貞男だった。
何かに対する怒りなのか、口元を醜く歪め、暗い瞳で私を睨みつけていた。
一瞬で、サーッと血の気が引くのがわかった。
ここは、あまり人気のない路地だ。このままどこかに連れ込まれたら……!そう考える暇もなく、私の足は勝手に近くの大通りへ向かって駆け出していた。
全力で走って、大通りに出る。いつもなら青信号のはずなのに、こういう時に限って、目の前の信号は赤だった。
「止まりたくない!」
とにかく立ち止まるのが怖くて、信号は無視して、駅に近い方へ通り沿いに走り続けようとした、その時。
後ろから、異様な音が聞こえてきた。
『 カ チ、ガ チ、ガ チギ チ、ギ、カ チ、カ、ギ チ、チ ギ、ギ ギ 』
……人が、あんな音を出せるなんて、知らなかった。
恐る恐る振り返ると、すぐ後ろに貞男がいた。
血走った目で私を睨みつけ、絶え間なく歯を食いしばり、ギリギリと鳴らしていたのだ。
心の中は「うわあああ!きゃあああ!あばばばば!」とパニックだったけれど、あまりの恐怖と驚きに声が出せず、私は後ろを振り向いたまま、その場で固まってしまった。
どれくらいそうしていただろうか。何人かの通行人がこちらに歩いてくるのが見え、ふと信号が青に変わっていることに気づいた。
我に返った私は、再びダッシュで駅へ向かい、プラットホームまで一気に駆け上がった。
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それ以来、塾で貞男の姿を見ることはなかった。
風の噂で、彼が精神的に不安定になっていた、という話も耳にした。
それでも、一人で塾から駅まで歩くのが怖くなり、必ず友達と待ち合わせて一緒に帰るようにした。
センター試験や大学の個別試験の会場で彼に遭遇したらどうしよう、と本番までずっとビクビクしていたけれど、幸い、そんなことは起こらなかった。
そして、私はなんとか無事に大学生になった。
大学で、同じ学科に加藤くんという男子がいた。彼は、偶然にも貞男と同じ高校の出身だった。
ある時、何かのきっかけで貞男の話になり、加藤くんから衝撃的な事実を聞かされた。
「ああ、貞男なら……亡くなったよ」
受験勉強を苦にしての自殺だったそうだ。遺書にも、そう書かれていたらしい。
「そうなんだ……。怖い目に遭ったけど、なんだか気の毒だな」
私はそう答えながら、彼が追いかけてきた夜のことを思い出していた。
……でも、話を聞いているうちに、妙な点に気づいた。
加藤くんが言うには、貞男の葬式は、私が彼に追いかけられた土曜日の、三日前の水曜日に行われたというのだ。
「水曜日は授業が早く終わるから、いつもなら友達とサッカーしてから塾に行くんだけどさ。その日は葬式があったから、塾に遅れて行ったんだよ。そしたら先生に『模試近いのに大丈夫か?』って、ちょっとからかわれてさ。だから、よく覚えてる」
学級委員だった加藤くんは、先生たちと一緒に葬儀に参列したらしい。
計算が、合わない。
どう考えても、あの土曜日の夜に、貞男が私を追いかけてくることなんて、できなかったはずなのだ。
じゃあ、あの夜。
暗い路地で私を睨みつけ、血走った目で歯ぎしりをしながら追いかけてきた“貞男”は、一体、何だったのだろうか。
その答えは、今でもわからない。
ただ一つ確かなのは、私が貞男のお墓にお線香をあげに行くことは、未来永劫ないだろうということだ。
またあの時みたいに、追いかけられるのは、もう絶対に嫌だから。
(了)
[出典:637 :2010/11/06(土) 18:39:53 ID:15gS1Xno0]