吉野さん(仮名)から聞いた話だ。
彼の地元は温泉地として知られているが、地元の人間なら誰もが口を閉ざす場所が一つある。正式な名前を出す者はいない。地図にも載っていない。子どもの頃から「行くな」とだけ言われ続けてきた温泉だ。
理由を聞いても、大人たちは決まって話を打ち切った。事故があったとか、人が死んだとか、そういう断片だけが曖昧に伝えられるだけだった。
吉野さんが都会の大学に進学し、久しぶりに実家へ帰省した夏のことだ。幼馴染の岡田と矢倉と再会し、夜遅くまで酒を飲んだ。話題は自然と昔話になり、誰からともなく、あの温泉のことが口に出た。
小学生の頃、三人で忍び込もうとしたことがある。山道の途中で、軽トラックに乗った見知らぬ男に呼び止められ、怒鳴られ、家まで送られた。顔も名前も思い出せない。ただ、ひどく焦ったような声だったことだけが記憶に残っている。
「今なら大丈夫なんじゃないか」
そう言ったのは矢倉だった。岡田も、最近は観光客が迷い込むこともあるらしいと付け加えた。何も起きていないとも言った。
結局、昼間に行くだけ、足を浸すだけ、そう決めて山へ向かった。
道は昔より整備され、木々の間から日が差していた。「危険 立入禁止」と書かれた古い看板はあったが、文字は薄れ、警告というより形式だけが残っているように見えた。
温泉は湧いていた。濁りはなく、湯気だけが静かに立ち上っている。熱すぎて浸かることはできず、三人は縁に腰掛け、足だけを入れた。
そのとき、岡田がぽつりと昔聞いた話をした。掘削中に崩落があり、助けを求める声が坑道から何日も聞こえたこと。作業が中断されたあとも、夜になると人影が見えたという話。だが、どこまでが本当か分からないと言って、話を切り上げた。
誰も何も言わなかった。足元の湯が、不意に冷えた気がしたが、気のせいだと思うことにした。
帰り道、振り返ると、湯気の中で何かが揺れたように見えた。誰も口にしなかった。
その夜、吉野さんは自宅の風呂に入った。
湯を張り、いつも通り体を洗っていた。違和感を覚えたのは、泡がなかなか流れなかったことだ。排水口が詰まっているのかと思ったが、水は引いている。泡だけが残っていた。
次の瞬間、足首に何かが触れた。掴まれたわけではない。ただ、確かに触れた。
慌てて立ち上がろうとしたが、足が動かない。浴槽の底が妙に深く感じられた。息が詰まり、声が出ない。視界の端で、湯気が人の形に集まったように見えた。
父親が扉を叩く音で、我に返った。外から引き戸を開けられ、吉野さんは浴槽から引きずり出された。父親には、泡も、人影も、何も見えていなかった。
その直後、矢倉の妹から電話が入った。兄が風呂場で倒れ、意識が戻らないという。
病院へ向かう途中、岡田からも連絡があった。矢倉が、足を湯に入れたとき「何かに触られた気がする」と言っていたことを思い出したと。
矢倉はその夜、亡くなった。
町の空気が変わった。誰かが三人のことを話し、親の耳にも入った。吉野さんは、あの温泉に行ったことを打ち明けた。
集まった大人たちは、責めるでもなく、ただ黙り込んだ。名前を出さず、その温泉を指す言葉だけを口にした。
それは、方言で「二度」という意味を持つ言葉だった。
何が二度なのか、誰も説明しなかった。
吉野さん一家は町を離れた。岡田は残った。
それからしばらくして、岡田は人が変わったようになったという。風呂に入れなくなり、夜中に水音が聞こえると言い、何度も桶を買い替えた。
最後に会ったとき、岡田は笑っていた。ただ、「一人だけ残った気がする」と言った。
数か月後、岡田は自宅の風呂場で亡くなった。事故か自殺かは分からない。ただ、割れた桶が床に散らばっていた。まるで、叩き割られたようだった。
吉野さんはいまも生きている。風呂にも入れる。何も起きない。
ただ、二人の命日が近づくと、湯が冷えるのだという。理由は分からない。
あの温泉が今もあるのかどうか、誰も知らない。
だが、なくなったという話も、聞いたことがない。
[出典:540 :温泉:2012/08/29(水) 18:36:54.01 ID:mEGWTIIw0]