録音の仕事を請けたのは、まったくの偶然だった。
古い市民ホールの閉館に合わせて、最後の音響テストを記録してほしいという依頼だった。舞台は解体が決まっていて、すでに客席の大半は撤去され、壁の吸音材も剥がされている。音がどこまで届くのか、最後に一度だけ確かめるらしい。
俺は空の客席にマイクを立て、舞台中央に立った。
読むのは決まった台本だ。意味のない音節を連ねた文章で、声の高さと持続時間を測るためのものだという。三回、同じ文を繰り返す。それだけで終わる簡単な仕事だった。
一回目を読み始めた瞬間、喉の奥がざらついた。
乾燥しているのだと思った。だが違う。乾いているのに、内側だけが重たい。空気を吸っているはずなのに、吸い込むたびに、何か粘度のあるものを通している感覚がある。
読み終えても、その違和感は残った。
水を飲もうとペットボトルを手に取ったが、喉を通る感触が、普段よりも鈍い。味も薄い。
二回目に入る。
今度は、喉の内側に膜が張ったような感触が広がった。声は出ている。録音レベルも正常だ。だが自分の声が、空間に溶ける前に、何かに吸われている気がした。舞台の上で、声だけが消えていく。
読み進めるうち、首の周囲がじわじわと圧迫される。触れているものはない。それでも確実に締められている。
息はできる。苦しくはない。ただ、空気が空気でないという確信だけがある。
三回目。
声を出すたび、胸の奥が冷えた。真冬の外気を吸い込んだような冷たさではない。もっと静かな、無音の温度だ。音が吸い込まれたあとの、空白の温度。
文章を読み切った瞬間、すべてが止まった。
圧迫も、膜の感触も、重たい空気も、消えた。
録音を確認しようと再生ボタンを押す。
波形ははっきり出ている。だが、ヘッドホンからは何も聞こえない。ノイズすらない。
機材の不具合かと思い、別のファイルを再生する。そちらは正常に鳴る。
問題の三回分だけ、完全な無音だった。
不気味になって舞台袖へ下がると、スタッフが首をかしげた。
「そんなに声、出してました?」
「かなり大きかったはずです」
「いや、ほとんど聞こえませんでしたよ。息遣いくらいで」
ホールを出る前、気になって舞台下をのぞき込んだ。
オーケストラピットは、すでに板で塞がれているはずだった。だが中央の一部が、ぽっかりと暗い。
覗き込んだ瞬間、喉の奥がひりついた。
あの粘度のある感覚が、戻る。
中は空洞ではなかった。
黒い水面のようなものが、わずかに揺れている。光を反射しない、水とも油ともつかない、沈黙の塊。
思わず後ずさる。
次の瞬間、スタッフが後ろから声をかけた。
「そこ、完全に埋めたはずなんですけどね」
振り返ると、彼の背後の床は、隙間なく板で覆われていた。暗がりはない。
もう一度足元を見る。そこにも、何もない。
帰宅してから、違和感に気づいた。
声が出ない。
喉は痛くない。腫れてもいない。
だが、どれだけ口を開いても、空気が抜けるだけだ。
三日後、病院で診てもらったが異常なしと言われた。
検査用のカメラを入れても、声帯は正常に動いている。
それでも、音にならない。
録音データを再生するたび、喉の奥がわずかに湿る。
そして、無音の波形を見ていると、画面の端に小さな揺らぎが走る。
それは、こちらの声ではない。
何かが、下から上がってくるような、低い振動だ。
あのホールは、先週取り壊された。
基礎の掘削中、地下から水が湧いたとニュースで聞いた。
偶然だろう。
そう思うことにしている。
だが、夜中に目が覚めると、喉の内側にあの膜が戻る。
息はできる。苦しくない。ただ、確かに沈んでいる。
声を奪われたのか、
それとも、何かを引き上げてしまったのか。
まだ判断はつかない。
(了)