ガン、という硬質な音が響いた。
そこは極北の観測拠点、通称「シェルター9」だ。分厚い断熱壁に囲まれた内部は、計器の電子音と空調の低い唸りだけが支配している。
鋼鉄の扉を叩く音で、簡易ベッドに転がっていた葛城(かつらぎ)は意識を取り戻した。年齢は五十手前。地質調査を生業とするベテランだ。
葛城は、鉛のように重い瞼をこじ開け、こめかみを指の関節で強く押した。酷い耳鳴りがする。昨晩、気圧調整に失敗したせいか、あるいは酸素濃度のアラートを見落としたか。吐き気が込み上げ、典型的な高山病の症状に思えた。
誰と通信していたのか、あるいは一人だったのか、記憶が霧の中にある。高度四千メートルの希薄な空気が、思考を鈍らせているのだろう。この過酷な環境ではよくあることだ。
壁のデジタル時計を見ると、正午を回っている。定期報告の義務がない日であることに、彼は安堵した。今日はシュラフに潜り込んだまま過ごそう。
再び、扉を叩く音がした。
誰だ? 補給部隊か。迷い込んだ登山家か。それとも、本部の監査官か。
「入れ」と声を絞り出そうとしたが、喉が張り付いて音にならなかった。高山病は厄介だ。加えて、急激に下がった気温のせいもあった。彼は極寒仕様の寝袋の中で、悪寒に震えながら身を縮めた。
すると、ロックが解除される油圧音が鳴り、冷気と共に何者かが侵入してくる気配がした。昨晩、内鍵をかけずに眠ってしまったらしい。不用心極まりない。それにしても、ノックの後に返事も待たずに入ってくるとは無作法な奴だ。
そう毒づきながら、葛城は入り口へ視線を向けた。
瞬間、彼の目は点になり、次いで警戒の色を帯びて見開かれた。
入ってきたのは、二十代半ばの男。装備の使い込み具合からして、素人ではない。
葛城の頭から、頭痛も眠気も吹き飛んだ。
「おい」と言いかけて、彼は言葉を飲み込んだ。相手が敵か味方か、判断がつかなかったからだ。閉鎖空間に、警告もなく踏み込んでくる見知らぬ男に対して、どう反応すべきか。葛城は瞬時に、記憶にある限りの同業者や遭難者リストを検索した。しかし、該当者はいない。
一体こいつは何者で、何の目的でこの座標へ来たのか。
彼は迷った挙句、身を起こさずに声をかけた。刺激しないよう、低いトーンを選んだ。
「所属はどこだ」
男は、驚く様子もなく、呆れたような苦笑を浮かべて応じた。
「冗談はやめてくださいよ。先輩」
その口調には、慣れ親しんだ響きと、少しの苛立ちが含まれていた。彼は次の問いを封じざるを得なかった。男が次に何をするつもりなのか、動きを見極める必要があった。
すると、さらに理解しがたい行動が始まった。
「今日は荒れますね」
そう男は言い、分厚いアウターを脱ぎ始めたのだ。躊躇はなく、まるで自室のように振る舞っていた。あまりに堂々としており、その動作が洗練されていたため、葛城は制止するタイミングを逃した。
インナー姿になった男は、換気ダクトの出力を上げ、湿った空気を循環させ始めた。さらに、自身のバックパックから携帯食料を取り出し、慣れた手つきでケトルに水を注いだ。無駄のない所作。鍛え上げられた肉体。葛城は、意識して視線を外した。凝視していると悟られるのは危険だ。
だが、沈黙は疑念を加速させる。牽制のために、何でもいいから音を出さなくてはと思い、彼は口を開いた。
「……装備の手入れでもしたらどうだ」
荒れる、という言葉への返答のつもりだった。だが、迂闊だったかもしれない。彼は即座に後悔し、身構えた。余計な指図をして、相手が逆上し凶器を取り出す可能性もある。
しかし、懸念は杞憂だった。
「そうします」と、男は備え付けの作業台へ向かった。やがて、工具が金属と触れ合う乾いた音が響き始めた。
だが葛城は、その背中越しに冷徹な金属部品が分解されていく光景を想像し、背筋が粟立つような焦燥を覚えた。
彼は恐怖を理性でねじ伏せ、状況分析を優先した。
あの男は、誰だ。
機密扱いのシェルターに入り込み、武装解除してくつろぐ男。産業スパイか、あるいはテロリストか。当然、最悪のケースが脳裏をよぎる。しかし、即座に否定した。服装にも、装備にも、特定の組織を示すエンブレムや痕跡が一切ない。
となると。答えは闇の中だ。
せめて手掛かりがあれば。葛城は音を立てずに寝袋から這い出し、床に置かれた男のバックパックへ滲み寄った。倫理観よりも、生存本能が勝っていた。
留め具を外す際、カチリと音がしたが、作業台の金属音がかき消してくれたはずだ。
彼は中を検分した。しかし、身元を特定できる物はなかった。IDカードや命令書、認識票の類はなく、予備のバッテリーや地図データ端末があるだけだった。端末も起動を試みたが、生体認証でロックされていた。
作業音が止まりかけたので、葛城は慌ててベッドへ戻った。何食わぬ顔で携帯端末の画面を点灯させ、意味もなくログをスクロールし続けた。
作業台から、メンテナンスを終えた男が戻ってきた。オイルの匂いが微かに漂い、その手にはまだ熱を帯びた何かが握られていそうだった。彼はすぐにはアウターを着ようとせず、言った。
「ああ、調整完了だ。すっきりしましたよ。……ところで、俺、喉が渇いてるんです。備蓄のタンク、まだ水は残ってますよね」
「棚の中に、予備のボトルがあるかもしれない」
と葛城は答えた。そう返すしかなかった。相手を刺激せずに泳がせていれば、そのうち正体が割れるボロが出るかもしれない。
キッチンエリアで、棚が開く音。キャップを捻る音。コップに液体が注がれる音がした。
また、男の声が飛んできた。
「先輩も、飲みますか」
「ああ」
葛城は唸るように答え、首を傾げた。どういうつもりだ。これは。
『なりすまし』という単語が脳裏に浮かんだ。しかし、無理やり潜入したという切迫感がない。もっと自然で、空気に溶け込んでいる。それとも、高度な訓練を受けた工作員なのだろうか。
男は湯気の立つマグカップを両手に持って戻ってきた。片方のカップを自分で啜り、毒がないことを示してから、葛城の枕元へ置いて座り込んだ。
「温まりますよ。どうぞ」
葛城は警戒し、手を出して受け取るのを躊躇った。
男の顔に、困惑の色が浮かんだ。好意を無にされたことへの不満というより、手順が狂ったことへの違和感のようだった。しかし、すぐに気を取り直したらしい。
男はカップを床に置き、自分の顔を葛城に近づけてきた。
葛城は硬直したが、至近距離まで迫られて気づいた。
瞳孔の反応を見ようとしているらしい。
葛城は反射的に顔を背けた。そのため、男の手は彼の額に触れた。
拒絶したのではない。相手は屈強な男だ。不意に入ってきた正体不明の人物に、バイタルチェックのような接触を許すのはリスクが高すぎる。警戒を解くわけにはいかない。
巧妙な懐柔工作。そのペースに乗せられるのは癪だ。とはいえ、このまま彼に従うのも、悪い選択肢ではないように思えた。実直そうで、頼りがいもある。少し生意気だが、疲弊した自分には、その若さが救いになるかもしれない。
そばに座る男から、オイルと汗の匂いがした。葛城は悟られぬよう、横目で観察した。首筋に古い傷跡がある。彼は手を伸ばし、その傷の由来を問いただしたい衝動を抑えた。聞けば、深入りすることになる。情が移れば、判断が鈍る。
さらに、男の態度には、指示を待っているような従順ささえある。
その点に気づき、彼は冷静さを取り戻した。
おかしい。これでは、あまりに辻褄が合いすぎる。
完璧な潜入こそ、疑わなくてはならない。もしかしたら、こちらの精神状態を操るための実験ではないか。気を許した途端、どこからともなく、催眠ガスが噴射されるとか。
そういえば、部屋に入った直後、男は換気ダクトを操作した。
葛城は、ダクトの方に目をやった。しかし、ファンが回っているだけで、異常な色の気体が流れている様子はない。ここは完全密閉されたシェルターだ。外から何かが投入されれば、センサーが警報を鳴らすはずだ。
葛城は、男を正面から見据えた。その顔に、悪意や殺意の影は全くない。
ついに彼は、突き放すような口調で言った。
「俺の所属を、知っているのか」
「やめてくださいよ。そんな確認なんて。ねえ」
と、男は同意を求めてきた。「ねえ」という語尾には、今更何を、という響きがあり、いくらか悲痛な響きも混じっていた。
「ああ」と答えはしたが、葛城には少しも分からなかった。空虚な返事だと思った。
だが、この膠着状態を維持するわけにはいかない。何とか、決着をつけなければならない。強制的にでもだ。
彼は思考をフル回転させた。これは新手の心理テストなのか。突然男がネタばらしをして、訓練終了を告げてくれないかと期待した。しかし、待てど暮らせど、それは起きない。男の眼差しは真剣そのもので、悪ふざけの類ではない。
遭難して錯乱した登山家なのだろうか。だが、それならこんなに手際が良いはずがない。常軌を逸している。
その他、あらゆる可能性をシミュレートした。しかし、これだという解には至らなかった。
葛城は再び尋ねた。
「君は、どこの部隊だ」
「よしてください。その言い方は」
男はちょっと、恨めしそうな目つきをした。先ほどと同じ反応だった。
どこかが狂っている。
葛城はそう断定し、今まで除外していた唯一の結論に達した。
狂っているのは、男の認識機能なのだ。精悍な顔立ち、澄んだ瞳。その奥で、認知回路が焼き切れているとは考えたくなかった。しかし、それ以外に説明がつかない。
彼は諭すような口調で言った。
「一度、ベースキャンプへ戻って診てもらったらどうだ」
その途端、男の表情が凍りついた。困惑、悲哀、そして驚愕がないまぜになった感情が走った。それから、男は眉根を寄せ、じっと考え込んだ。
何を考えているのか。バグを起こした脳は、どう処理を組み立てるのか。
葛城は緊張で筋肉を強張らせた。相手が錯乱して暴れ出すかもしれない。
確かに、予期せぬことが起きた。
男が静かに、こう答えたのだ。
「そうですね。そうした方が、良さそうです」
怒号も上げず、抵抗することもなく、男は従順だった。彼はアウターを羽織り、バックパックを背負い、簡単に身支度を整えて、シェルターから出ていった。
重い扉が閉まる音を聞きながら、葛城は呟いた。
「雪山では奇妙なこともあるもんだ」
彼は一応安堵し、ベッドに仰向けになったまま、今の出来事を反芻した。
信じられない幻覚のように思えてならなかった。床に湯気の立つマグカップさえ残っていなければ、低酸素が見せた白昼夢として処理できるのだが。
彼はコーヒーを口にした。まだ熱さが残っていて、冷え切った内臓に染み渡った。
しばらくすると、通路の奥から足音がした。
葛城が身を起こしかけた時、扉が開き、さっきの男が入ってきた。
何か忘れ物でもしたのか。ルートを聞きに戻ってきたのか。
彼は聞いてみた。
「本部は、どうだった」
「ここに来てますよ」
と答える彼の背後から、一人の男が入ってきた。階級章をつけた、厳格そうな中年の隊長だった。
ますます分からない。どういうことだ?
葛城は、混乱と不安に満ちた声を上げた。
しかし、その答えは彼に向けられず、彼が耳にしたのは、男と隊長との会話だった。
「ほら、隊長。バディである俺のことを、すっかり忘れてしまってるんです」
「昨日の爆破作業中、衝撃で吹き飛ばされて頭を打ちましたからね。俺、パニックになって無線で怒鳴りつけちまったんです。そしたら、今日になって様子がおかしくて。最初は冗談かと思ってたんですけど」
「外傷性の一時的な記憶障害のようだな」
と隊長は頷き、先を促した。
「ええ。俺たちが半年間、この区画でペアを組んで調査してきたことを、何もかも覚えていないようです。転倒した時に、ヘルメット越しに岩にでもぶつけたんでしょうか」
「そうかもしれん。しかし、そう心配することはないぞ」
隊長は葛城の方を哀れむように見つめ、言った。
「すぐに思い出せるさ」
(了)