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笑う上司 r+2,138

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出張に行ったときの話をしようと思う。

あの夜のことを、忘れたくても忘れられない。いや、正確に言うと「忘れるのが怖い」とでも言えばいいのだろうか。曖昧な夢だったと処理できれば楽なのに、現実の感覚が肌にこびりついて離れない。

午後九時。怒鳴り合いに近かった打ち合わせがようやく終わったときには、もう心身ともにすり減っていた。新幹線で戻るには遅すぎる時間だし、帰路の道程を考えただけで頭痛がしてきた。出張先の地方都市に泊まるしかないと判断したのは、必然だったと思う。

皆川さん――直属の上司だ――は、飲み足りなさそうな顔をしていたが、俺自身はただ眠りたかった。けれど気まずい空気をほぐすために付き合いで二軒目に入り、気がつけば時計は十一時を過ぎていた。店を出た頃には酔いと疲れとが入り混じり、脚が鉛のように重かった。

「ここら辺のホテルはすいてるから、遅くても大丈夫だ」
そう言ったのは皆川さんだ。普段から口数が多いくせに妙なところで断定的な物言いをする人だった。俺は反論する気力もなく、駅前のホテルを片っ端から覗いて回った。

ようやく見つけたホテルのフロントで、受付の女が少し困ったように言った。
「ツインルームなら一部屋、ご用意できますが……」

俺は即答した。
「じゃあそれで」

皆川さんは微妙な表情を浮かべたが、俺は無視した。とにかく寝床さえ確保できればよかった。

部屋に入ると、無機質なベージュの壁と、狭苦しいベッドが二つ。小さな冷蔵庫の唸りと、空調の低い振動音だけが響いていた。荷をほどく気力もなく、俺はベッドに倒れ込みかけた。そのときだった。

「熊谷、ナルコレプシーって知ってるか」

突然、皆川さんが妙なことを言い出した。俺は半分眠りながら、意味もわからず「新車ですか」と答えた。彼は苦笑して首を振った。

「いや、睡眠障害だ。俺、寝入りばなに金縛りに遭うことが多くてな。呼吸が荒くなったり叫んだりするかもしれん。そのときは頼むから起こしてくれ」

気味が悪かった。これから寝ようとしているときに、なんでそんな不吉な話をするのか。俺は適当に返事をし、目を閉じた。皆川さんは「俺が寝付くまで寝るなよ」と言い残し、先に眠りに落ちた。

次に目を覚ましたのは、午前二時を過ぎた頃だった。尿意で起きたのだと思う。電気を消したままトイレに行き、ベッドに戻った。ふと隣を見ると、皆川さんが仰向けで眠っていた。……はずだった。

その顔を見た瞬間、背筋が凍りついた。

満面の笑み。口をこれ以上開けられないほどに開き、目をかっと見開いている。狂人の笑い顔。声はない。瞬きもない。呼吸の気配すら消えていた。死んでいるのではないかと錯覚した。

思わず凝視していると、唐突にその表情が消えた。安らかな眠り顔に戻っている。幻覚を見たのかもしれない。だが、どうしても見間違いとは思えなかった。

しばらく様子をうかがっていたが変化はなく、俺はシーツを頭までかぶった。眠れるはずもなく、耳ばかりが研ぎ澄まされていた。すると、不意に音がした。

ミシ、ミシ……

床板を押し潰すような重い足音。部屋の隅からこちらへ近づいてくる。ドアはオートロックのはずだ。誰かが入れるわけがない。心臓が耳の奥で破裂しそうになった。

足音はときに止まり、ときに急ぎ足になり、俺のベッドの周りを回っている。息を殺して耳を澄ませると、確かに「そこにいる」感覚がした。幽霊か強盗か、それすらわからない。ただ一つ、目を開けたら終わりだという確信だけがあった。

やがて、音は俺の枕元に迫った。身を固めた瞬間、肩をがしりと掴まれた。

「おい!」

叫び声が喉から洩れた。振り向くと、そこにいたのは皆川さんだった。

「大丈夫か」
俺は震える声で今までの出来事を話した。だが彼は真剣に取り合わず、「夢でも見たんだろ」と笑った。

俺は眠れず、部屋の明かりをすべて点けた。皆川さんはタバコをふかし、俺はノートパソコンを取り出して無意味にソリティアを始めた。気を紛らわそうとネットでホテルの情報を検索すると、掲示板の削除済み投稿がいくつか見つかった。理由は書かれていない。だが、何かを隠しているのは明白だった。

「皆川さん、これ……」と声をかけたときには、もう彼は眠っていた。苦しげに呻いているようだったが、俺は見なかったことにした。

だが、その瞬間。画面の隅で、ホテルのロゴが妙に歪んで見えた。文字がじわりと笑顔のように曲がり、ニタリと口角を吊り上げた顔に見えた。心臓を掴まれたような悪寒が走った。

慌てて視線をそらしたとき、隣のベッドから低い声が漏れた。
「……起こしてくれよ」

皆川さんの声だった。しかし目を閉じたまま、顔はあの笑顔になっていた。白目をむき、口を大きく開いて。

「起こしてくれよ」
「早く、起こしてくれよ」

繰り返す声は、まるで部屋の四方から響いているようだった。

俺は震える手で彼の肩に触れようとした。だが、その肩は冷たかった。あのとき、掴まれた俺の肩の感触――生温かい人間の手――とはまるで違った。

思わず引き下がると、皆川さんの瞼がカッと開いた。
黒目がなかった。白眼だけが俺をまっすぐ見ていた。

声にならない悲鳴を上げた。だが次の瞬間、俺はベッドの上で朝を迎えていた。明るい光がカーテンの隙間から射し込み、皆川さんが煙草を吸いながら「よく寝たな」と笑っていた。

現実だったのか夢だったのか、今もわからない。ただ一つ確かなのは、あの夜から俺は熟睡というものを知らないということだ。眠りに落ちるたび、隣で誰かが笑っている気配がする。

[出典:275:ニュー鳴子 2007/11/28(水) 00:33:58 ID:seAkH0Uz0]

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