出張に行ったときの話をしようと思う。
あの夜のことを、忘れたくても忘れられない。いや正確に言えば、忘れてしまうのが怖い。夢だったと片づけてしまえたなら楽なのに、現実の感触だけが妙に鮮明で、皮膚の裏にへばりついたまま剥がれない。
午後九時過ぎ。ほとんど怒鳴り合いに近い打ち合わせがようやく終わった頃には、神経も体力も擦り切れていた。新幹線で帰るには遅すぎる時間で、今から移動することを考えただけで頭が重くなる。この地方都市に泊まるしかないという判断は、ごく自然な流れだったと思う。
皆川さん。直属の上司だ。仕事はできるが癖の強い人で、普段はよく喋るくせに、妙なところで断定的な言い方をする。打ち合わせ後もどこか飲み足りなさそうな顔をしていたが、俺はとにかく横になりたかった。気まずさを避けるために一軒だけ付き合うつもりが、結局二軒目まで引きずられ、店を出たときには十一時を回っていた。
酔いと疲労が混ざり合い、脚が自分のものじゃないみたいに重い。駅前のホテル街を歩きながら、皆川さんが言った。
「この辺のホテルは空いてるからな。遅くても大丈夫だ」
根拠は聞かなかった。聞く気力もなかった。フロントをいくつか回り、ようやく見つけたホテルで、受付の女が少し困ったような顔をした。
「ツインルームでしたら一部屋、ご用意できますが……」
俺は間髪入れずに答えた。
「それでいいです」
皆川さんが一瞬だけ渋い顔をしたのを覚えているが、正直どうでもよかった。とにかく寝床が欲しかった。
部屋は典型的なビジネスホテルの一室だった。無機質なベージュの壁、狭いツインベッド、低く唸る冷蔵庫と空調の音。窓の外からは、夜遅くまで走る車の音が遠くに聞こえていた。荷物をほどく気力もなく、俺はベッドに倒れ込もうとした。
そのとき、背後から声がした。
「熊谷、ナルコレプシーって知ってるか」
唐突すぎて、意味が追いつかなかった。半分眠りかけた頭で「新車ですか」と的外れなことを言うと、皆川さんは小さく笑って首を振った。
「違う。睡眠障害だ」
それ以上、詳しい説明はなかった。少し間を置いて、彼は続けた。
「俺さ、寝入りばなに変な状態になることがあってな。金縛りみたいになる。呼吸が荒くなったり、叫んだりするかもしれん。そのときは……起こしてくれ」
なぜ今その話をするのか理解できなかった。これから眠ろうというときに聞かされる話じゃない。気味が悪かったが、反論する気力もなく、適当に相槌を打った。
「俺が寝付くまで、先に寝るなよ」
そう言い残し、皆川さんは先にベッドに入った。数分もしないうちに、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
次に目を覚ましたのは、午前二時を過ぎた頃だった。尿意で目が覚めたのだと思う。電気をつけずにトイレへ行き、戻ってきてベッドに横になった。無意識に隣のベッドに目を向けて、背中が凍りついた。
皆川さんが、仰向けでこちらを見ていた。

いや、見ていたというより、凝視していた。口を限界まで開き、目をかっと見開き、笑っている。笑顔というより、笑う形をした異物だった。瞬きはなく、呼吸の気配もない。生きている人間の顔に見えなかった。
声を出そうとしたが喉が動かなかった。ただ目を逸らすこともできず、数秒、あるいは数十秒、その顔を見続けていたと思う。次の瞬間、唐突に表情が崩れ、何事もなかったような寝顔に戻った。
幻覚だ。そう思おうとした。だが、見間違いにしては、あまりに具体的すぎた。
それ以上確かめる勇気はなく、俺はシーツを頭までかぶった。眠れるはずもなく、耳だけが異様に冴えていく。しばらくして、不意に音がした。
ミシ、ミシ……
床板を押し潰すような、重い足音。部屋の隅から、こちらへ近づいてくる。ドアはオートロックだ。誰かが入れるはずがない。心臓が内側から叩き割られそうだった。
足音は止まり、また動き、俺のベッドの周囲を回っている。視線を感じた。確かに「何かがそこにいる」という確信だけがあった。幽霊か、人間か、それすら判断できない。ただ、目を開けたら終わる、という感覚だけが異様に強かった。
やがて足音は枕元で止まった。次の瞬間、肩を強く掴まれた。
「おい」
反射的に叫び声を上げて振り向いた。そこにいたのは、皆川さんだった。
「どうした、大丈夫か」
震えながら、今起きたことを必死に説明したが、彼は真剣に取り合わなかった。
「夢だろ。疲れてるんだ」
そう言って、あくびを噛み殺すように笑った。
それ以降、俺は一睡もできなかった。部屋の照明をすべて点け、皆川さんはベッドに腰掛けて煙草を吸い、俺はノートパソコンを開いて意味もなくソリティアを続けた。気を紛らわすためにホテルの名前を検索すると、掲示板の削除済み投稿がいくつも出てきた。内容は見られない。ただ、何かを消した痕跡だけが残っていた。
「皆川さん、これ……」
声をかけたとき、彼はもう眠っていた。苦しげな呻き声を漏らしていたが、俺は見ないことにした。
その瞬間、パソコン画面の隅で、ホテルのロゴが歪んだ。文字の並びが、ゆっくりと口角を吊り上げる形に変わり、笑っている顔に見えた。背筋に冷たいものが走り、慌てて視線を逸らした。
隣のベッドから、低い声が聞こえた。
「……起こしてくれよ」
皆川さんの声だった。目を閉じたまま、顔だけがあの笑顔になっている。白目を剥き、口を大きく開けて。
「起こしてくれよ」
「早く、起こしてくれよ」
声は一方向からではなかった。部屋の四方から、同時に響いてくる。
俺は震える手で、彼の肩に触れようとした。だがその肩は、異様なほど冷たかった。さっき掴まれたときの、生温かい人の手とは、まるで別物だった。
思わず後ずさった瞬間、皆川さんの瞼が跳ね上がった。黒目はなく、白眼だけが俺を真っ直ぐ見ていた。
声にならない悲鳴を上げたところで、意識が途切れた。
次に目を覚ましたとき、朝だった。カーテンの隙間から光が差し込み、皆川さんは何事もなかったように煙草を吸いながら言った。
「よく寝たな」
あれが現実だったのか夢だったのか、今でもわからない。ただ一つだけ確かなのは、あの夜以来、俺は熟睡というものを知らないということだ。眠りに落ちるたび、隣で誰かが笑っている気配がする。そして、いつか自分も誰かに向かって、あの言葉を繰り返すのではないかという予感だけが、消えずに残っている。
[出典:275:ニュー鳴子 2007/11/28(水) 00:33:58 ID:seAkH0Uz0]