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中編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2026

第一デパートの個室 nc+

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すき焼きの匂いを嗅ぐと、今でも奥歯の奥が浮くような不快感を覚える。

醤油と砂糖が焦げる甘ったるい香りに、牛脂の重たい獣臭さが混じり合うあの匂い。それは私にとって、食欲をそそるものではなく、ある種の儀式の始まりを告げる合図のように記憶されている。

大学二年の夏休みだった。
私は、大学で唯一と言っていい友人であるKの実家に招かれていた。
Kの実家は、都心から電車で一時間半ほど離れた郊外の古い住宅街にあった。昭和のニュータウンとして開発され、そのまま緩やかに寂れていった街だ。灰色のコンクリート壁が続く団地群を抜け、少し坂を登ったところに、その日本家屋はあった。
庭木は伸び放題で、鬱蒼とした緑が昼間の陽光を遮っている。
通された居間は、湿り気を帯びた畳の匂いがした。

「わざわざ遠いところ、よく来てくれたわねえ」
Kの母親は、過剰なほど愛想が良かった。
小柄でふっくらとした体型。家の中だというのに、外出着のような派手な幾何学模様のワンピースを着ている。
違和感があったのは化粧だ。
顔の皺を埋めるように厚く塗られたファンデーションと、血のように赤い口紅。それが笑うたびにひび割れ、剥落しそうに見えるのが、妙に不安を煽った。

夕食はすき焼きだった。
卓上コンロに乗せられた鉄鍋が、グツグツと音を立てている。
母は、私とKの皿に、頼みもしないのに次々と肉を放り込んだ。
「若いんだから、たくさんお食べ。精をつけないとね」
精をつける。その言葉の響きが、どこか性的な生々しさを含んでいるようで、私は箸を進める手が重くなった。
Kは無言だった。
母親の過干渉に慣れているのか、あるいは諦めているのか、ただ黙々と白菜を口に運んでいる。親子の会話はほとんどない。母親の視線は、娘を通り越し、終始私だけに注がれていた。

話題が大学周辺のことに及んだ時だった。
私が何気なく、駅前の再開発の話をすると、Kの母が唐突に身を乗り出した。
「ねえ、あなた。第一デパートって知ってる?」
第一デパート。
それは大学の近くにある、地域密着型の古い百貨店だった。かつては街のシンボルだったらしいが、今ではテナントの撤退が相次ぎ、風前の灯火といった風情の建物だ。
「はい、知っていますけど……あまり行きません」
「そうよねえ、今の若い子は行かないわよねえ」
彼女は煮詰まった鍋に割下を足した。ジュウ、と液体が蒸発する音が響き、白い湯気が彼女の顔を覆い隠す。
湯気の向こうから、粘着質な声がした。

「私ね、独身時代、そこでデパガやってたのよ。エレベーターガール」
今の体型からは想像がつかないが、昔はさぞ美しかったのだろうという口ぶりだった。
「あのね、一ついいことを教えてあげる」
彼女は菜箸を持ったまま、声を潜めた。
まるで、誰にも聞かれてはいけない重大な秘密を打ち明けるように。
「暇な時でいいからさ。四階の女子トイレ、行ってみて」
「え?トイレ、ですか?」
「そう。四階の、一番奥」
彼女はニタリと笑った。赤い唇が歪な弧を描く。
「理由はね、行けばわかるから。秘密よ」

Kが「お母さん、変なこと言わないでよ」と小さく遮ったが、母は聞こえないふりをした。
その目は、笑っていなかった。
瞳孔が開ききった黒目が、私を射抜くように凝視していた。
それは冗談やいたずらの類ではない。もっと切実で、呪術的な「依頼」のように響いた。
私は曖昧に頷くしかなかった。
鍋の中では、煮えすぎた牛肉がどす黒く変色し、脂が白く固まり始めていた。

それから数年が経った。
大学を卒業し、就職した私は、忙しさにかまけてKとは疎遠になっていた。
Kの実家で聞いた奇妙な話も、日常の雑事に紛れて記憶の底に沈殿していたはずだった。

きっかけは、一枚のチラシだった。
ポストに入っていた地域情報のフリーペーパー。
その隅に、『さようなら、第一デパート。五月三十一日をもって完全閉館』という記事が載っていた。
老朽化による取り壊しが決まったのだという。
その文字を見た瞬間、私の脳裏に、あの夜の光景が鮮烈に蘇った。
湿った畳の匂い。煮詰まったすき焼きの湯気。
そして、厚化粧の奥から放たれた、あの異様な視線。
『四階の女子トイレ、行ってみて』

背筋に冷たいものが走った。
なぜだろう。
私はKの母が好きではなかった。あの夜の居心地の悪さは、二度と思い出したくない記憶だった。
それなのに、私は「行かなければならない」と強く思ったのだ。
約束を守るためではない。
まるで、数年前に埋め込まれた時限装置が、閉館の知らせをトリガーにして起動したかのような、抗いがたい衝動だった。
確認しなければ。
何があるのか。あるいは、何もないのか。
もし行かずに建物が取り壊されてしまったら、私は一生、喉に小骨が刺さったような違和感を抱えて生きていくことになる気がした。

その週末、私は電車に乗った。
Kには連絡しなかった。
これは私と、あの母親との間の、奇妙な契約なのだと思ったからだ。
車窓を流れる景色が、都心から郊外へと移ろうにつれ、空の色が少しずつ淀んでいくように見えたのは、私の気のせいだったろうか。
私は吸い寄せられるように、終わりの刻が迫るデパートへと足を向けた。

駅に降り立つと、そこは私の記憶にある風景とは少しずつ、しかし決定的に異なっていた。

駅前ロータリーは整備され、ガラス張りの真新しいビルが林立している。学生時代に通った定食屋や古本屋は姿を消し、無機質なチェーン店に置き換わっていた。
その中で、第一デパートだけが、時間の流れから取り残されたかのように、頑なにそこに在った。
煤けたクリーム色の外壁、屋上に掲げられた色あせた看板。閉店セールを告げる赤と黄色の垂れ幕が、まるで葬式の幔幕のように建物を覆っている。

自動ドアをくぐると、店内は独特の匂いに満ちていた。
古い空調のカビ臭さ、埃、そして微かな衣料品の匂い。それは、Kの実家の玄関で嗅いだ匂いとは違うものの、どこか通底する「澱み」を感じさせた。
閉店を惜しむ地元客で、店内は意外なほど混雑していた。ワゴンに山積みになった商品を漁る老人たち、最後だからと記念撮影をする若者たち。喧騒はあったが、それは活気というよりは、終焉を前にした最後の悪あがきのような、空虚な賑わいだった。

私はエスカレーターに乗った。
一段ずつ上がるたびに、胃のあたりが重くなるのを感じた。
二階、三階と上がるにつれ、人の姿はまばらになっていく。テナントの多くは既に撤退しており、白いパーティションで囲われた空きスペースが目立つ。
四階に着いた時、そこはもう半ば廃墟のような静けさに包まれていた。
かつて婦人服売り場だったと思われるフロアには、売れ残りのブラウスやスカートがサイズ別に無造作に吊るされているだけだ。店員の姿も見当たらない。
蛍光灯が一本、チカチカと明滅を繰り返している。
その不規則なリズムが、私の心拍数と同期していくようで不快だった。

奥へ進む。
『化粧室』という青白いピクトグラムが、通路の突き当たりに浮かんでいた。
床のPタイルは所々剥がれかけ、歩くたびにパキ、パキと乾いた音を立てる。
私は一度立ち止まり、深く息を吸い込んだ。
何をしているのだろう、私は。
こんな寂れたデパートのトイレに来て、何を確認しようというのか。Kの母は、ただの変わり者だった。あの言葉も、意味深なことを言って若者をからかっただけの、悪趣味な冗談に過ぎないはずだ。
帰ろうか。
踵を返そうとしたその時、トイレの中から微かな音が聞こえた気がした。
……チョロ、チョロ、チョロ。
水の流れる音。
誰かいるのか。

好奇心が恐怖を上回ったわけではない。ただ、ここで引き返せば、一生この「棘」が抜けないような気がしたのだ。私は意を決して、女子トイレの入り口をくぐった。
中は薄暗かった。
洗面台の鏡は曇り、錆の浮いた蛇口からは、やはり水滴がポタリ、ポタリと垂れている。
芳香剤の強烈なレモンの香りが充満していた。それはトイレの臭気を消すというより、上書きして麻痺させるような暴力的な強さだった。
個室は三つ並んでいた。
手前と真ん中のドアは開いている。中は空だ。
一番奥の個室。
そこだけが、閉まっていた。

『使用中』の赤いマークが表示されているわけではない。古いタイプの鍵で、外からは判別しにくい構造だ。
だが、閉まっている。
私は洗面台の前に立ち、鏡越しにそのドアを見つめた。
静かだ。
衣擦れの音もしない。息遣いも聞こえない。
ただ、そこに「質量」があることだけは、肌感覚でわかった。
空気がそこを中心にして澱んでいる。
私は逃げ出したい衝動を抑え、濡れた手をハンカチで拭うふりをしながら、鏡の中のドアを凝視し続けた。

どれくらいの時間が経っただろうか。数秒かもしれないし、数分かもしれない。
唐突に、音がした。
カチャリ。
内側から鍵を外す、硬質な金属音。
私はビクリと肩を震わせ、振り返った。
一番奥のドアが、ゆっくりと、軋んだ音を立てて内側へ開いていく。
暗い個室の闇の中から、ぬっと人影が現れた。

息を呑んだ。
そこに立っていたのは、Kの母だった。
見間違いようがない。
小柄だが肉付きの良い体躯。白く厚塗りされた肌。生き血を啜ったような真っ赤な唇。
そして何より、私の目を釘付けにしたのは、彼女の服装だった。
あの派手な柄のワンピース。
数年前、Kの実家ですき焼きを囲んだあの夜に着ていた、あのワンピースそのものだったのだ。
季節は春だというのに、彼女は真夏の装いのまま、そこに立っていた。

彼女はゆっくりと顔を上げ、私を見た。
その表情には、驚きも、再会の喜びもなかった。
ただ、予定調和の事象を確認するかのように、ひどく落ち着き払った眼差しだった。
私の心臓は早鐘を打ち、口の中がカラカラに乾いた。
「……お久しぶりです」
喉から絞り出した声は、掠れていて自分のものではないようだった。
Kの母は答えなかった。
彼女は幽霊のように足音もなく洗面台へと近づき、私の隣に立った。
鏡の中に、私と彼女が並んで映る。
彼女はバッグを持っているわけでもなく、手ぶらだった。
手洗いもしないまま、彼女は鏡の中の私に向かって、にっこりと笑った。
あの夜と同じ、瞳の奥が笑っていない、粘着質な笑み。

「ね?」

彼女が発したのは、その一言だけだった。
ね?
それは同意を求める響きであり、正解を示した教師のようでもあり、あるいは共犯者への合図のようでもあった。
彼女はそのまま踵を返し、出口へと向かった。
すれ違いざま、あの安っぽい白粉の匂いが、鼻腔を強烈に刺激した。
私は動けなかった。
彼女の背中が入り口の角を曲がって消えるまで、金縛りにあったように立ち尽くしていた。
彼女が去った後のトイレには、レモンの芳香剤と混じり合って、古びた白粉の匂いだけが濃厚に残されていた。

しばらくして、ようやく体の自由を取り戻した私は、震える足で出口へ向かおうとした。
だが、その時、ふと気になった。
彼女が出てきた、あの一番奥の個室。
あの中はどうなっているのだろうか。
見てはいけない。本能がそう警告していた。
しかし、私は引き寄せられるように、開け放たれたままの奥の個室へと近づいてしまった。
中を覗き込む。
そこには、便器があるだけだった。
何の変哲もない、古い和式の便器。
だが、私は見てしまった。
タンクの上に、何かが置かれているのを。

タンクの上に置かれていたのは、小さなタッパーだった。

半透明のプラスチック容器。
その中には、茶色く干からびた何かが詰まっていた。
よく見ると、それはすき焼きの残り物のように見えた。
変色した白菜、しらたき、そして脂の固まった肉片。
数年前、Kの実家で食べた、あのすき焼きの残骸が、なぜこんなところに。
いや、それだけではない。
タッパーの蓋に、油性マジックで殴り書きされた文字があった。
『Kの分』

背筋が凍りついた。
Kの分。
Kとは、私の友人の名前だ。
あれは、母親が娘のために残したものなのか?
だが、なぜ数年前の夕食がここに?
混乱する頭の中で、一つの仮説が稲妻のように走った。

あの夜。
Kの母は言った。「独身時代、ここで働いていた」と。
そして「行けばわかる」と言った。
彼女が出てきた時の服装は、あの夜のままだった。
もし、彼女が「数年ぶりにここに来た」のではなく、「あの夜からずっとここにいた」としたら?

私は後ずさりした。
じゃあ、あの夜、実家で私たちにすき焼きを振る舞い、夜中にボソボソと独り言を言っていた「あれ」は誰だったのだ?
いや、順序が逆だ。
あの夜、実家にいたのは確かにKの母だった。
しかし、彼女の一部、あるいは彼女の「本質」のようなものが、この場所に置き去りにされていたのではないか。
彼女は独身時代、このトイレという閉鎖空間に、若さや情念や、あるいは言葉にできないドロドロとした何かを吐き出し続け、それをこの個室に「保存」していたのだ。
そして数年前のあの夜、彼女は私という部外者を見つけ、私をこの場所へ誘導することで、保存していた「過去の自分」を回収させようとしたのではないか。
いや、違う。回収ではない。

私は個室から目を逸らし、洗面台の鏡を見た。
鏡の中に、私の顔が映っている。
蒼白で、恐怖に歪んだ顔。
だが、その口元が、意思に反してピクリと動いた。
口角が上がり、ニヤリと歪む。
まるで、あのKの母のように。

「交代ね」

鏡の中の私が、音のない声でそう言った気がした。

私はハッとして自分の口元を押さえた。
今、私は何を考えた?
交代?
誰と?

その瞬間、理解してしまった。
Kの母は、ここを出て行った。
「ね?」という言葉は、「これで代わりが見つかった」という確認だったのだ。
彼女はこの場所という壺の中に、自らの執着を閉じ込めていた。そしてそれを解放する「栓」を抜く人間を待っていた。
私がここに来て、彼女を目撃したことで、彼女は自由になった。
あの夜の姿のまま、彼女は外の世界へ帰っていった。
では、空になったこの壺には、誰が入るのか?

ガチャリ。
入り口のドアが開く音がした。
誰かが入ってくる。
私は反射的に、一番奥の個室に滑り込み、鍵をかけた。
なぜそんなことをしたのか、自分でもわからない。
ただ、そうしなければならないという強迫観念があった。
隠れなければ。

足音が近づいてくる。
ヒールではない。スニーカーのような軽い足音。
足音は洗面台の前で止まった。
水が出る音。
そして、独り言が聞こえた。
「……本当にここなのかな、母さんが言ってたの」

心臓が止まるかと思った。
その声は、Kだった。
懐かしい、少し低めのハスキーな声。
Kもまた、母親に言われてここに来たのか。
「Kの分」と書かれたタッパー。
あれは、私への罠であると同時に、娘をおびき寄せるための餌でもあったのか。

Kが近づいてくる。
一番奥の個室の前で、足音が止まる。
彼女はノックもしない。ただ、じっとドアの前に立っている気配がする。
私は息を殺して、ドアノブを握りしめた。
開けてはいけない。
開ければ、私はKに「ね?」と言って、ここを出て行くことになる。
そしてKが、この個室に残される。
それが、母親が仕組んだ「循環」なのだ。

しかし、私の手は、意思とは無関係に鍵に触れていた。
カチャリ。
鍵を外す音が、静寂なトイレに響き渡った。
ドアを、開ける。
光が差し込む。
Kの驚いた顔が見える。
私は、彼女を見て、自然と笑みがこぼれるのを感じた。
瞳の奥が笑っていない、あの粘着質な笑みが、私の顔に張り付いていく。

私はただ、友人との再会を喜んでいるだけなのかもしれない。
あるいは、ようやくここから出られることを喜んでいるのかもしれない。
どちらにせよ、私の口からこぼれたのは、たった一言だった。

「ね?」

Kがどんな表情をしたか、私は確認しなかった。
私は彼女の横をすり抜け、出口へと向かった。
すれ違いざま、Kから、あの安っぽい白粉の匂いがした気がした。
それは彼女の匂いなのか、それとも私が纏っていた匂いが移ったのか。

デパートを出ると、雨が上がっていた。
外の空気は美味しかった。
私は大きく伸びをして、雑踏の中へと歩き出した。
私のせいじゃない。
私はただ、言われた通りに見に来ただけなのだから。
今はどうなっているか知らない。
Kがまだあそこにいるのか、それとも誰か別の客が来るのを待っているのか。
第一デパートはもうすぐ取り壊される。
あの個室ごと、瓦礫となって消滅すればいい。
そうすれば、この連鎖も終わるはずだ。

ふと、ショーウィンドウに映った自分の姿を見た。
そこには、少し老けたようにも見える、派手なワンピースを着た私が映っていた。
私はあんな服、持っていなかったはずなのに。
まあいいか。
私は口紅を塗り直すと、軽やかな足取りで駅へと向かった。

駅前の横断歩道ですれ違った女が、こちらを見て一瞬だけ笑った気がした。
白粉の匂いが、風に乗って遅れて届いた。

[出典:67 :本当にあった怖い名無し:2018/07/20(金) 10:03:56.20 ID:/ugGv8KY0.net]

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