毎年夏になると、祖父母に連れられて、決まって同じ山奥の温泉地に泊まりに行った。
テレビでは名湯だの効能だのと持ち上げられていたが、子どもにとっては遊ぶ場所もなく、ただ退屈なだけの施設だった。
今でも真夏のアスファルトから立ち上る陽炎を見ると、あの場所の匂いが鼻の奥に蘇る。
焦げたゴムのような硫黄の臭気と、安っぽい業務用洗剤、古びた畳の藁が混ざった、重苦しい匂いだ。
我が家の夏休みは、中学生になるまで奇妙な不文律に縛られていた。
海でも遊園地でもなく、必ず祖父母とその温泉地に泊まること。
県境を越えた山間部に、突然巨大なコンクリートの塊が現れる。増改築を繰り返したらしいその建物は、リゾートホテルとも病院ともつかない中途半端な外観をしていた。
ロビーには、松葉杖をついた老人や、頭に手ぬぐいを巻いた人たちが静かに座っていた。
皆、どこか遠くを見るような目をしている。
子どもは、私と三つ下の弟しかいなかった。
十年近く通ったが、同年代の声を聞いた記憶は一度もない。
「ここはな、身体の悪いもんを吸い出してくれるんや」
祖父は到着するたび、決まってそう言った。
三泊すると、帰る頃には祖父の顔色が嘘のようによくなる。
だから誰も文句を言わなかった。私と弟を除いて。
娯楽は何もなかった。
ゲームコーナーも卓球台もない。
売店の隅に埃を被った漫画が数冊あるだけだ。
大人たちが長い入浴を終えるまで、私たちは静まり返った館内を彷徨うしかなかった。
小学五年生の夏。
その日も到着すると、祖父母と両親は大浴場へ向かった。
残された私と弟は和室で寝転び、天井を見ていた。
「兄ちゃん、探検しようや」
弟の一言で、私たちは館内を歩き始めた。
誰もいない宴会場、黴臭い図書室、薄暗い廊下。
すれ違う宿泊客は、私たちが挨拶しても、見えていないかのように通り過ぎた。
鬼ごっこになり、私が鬼だった時、西館の奥にあるエレベーターの前に立った。
普段使われていないらしく、扉は曇り、ボタンの周りは黒ずんでいる。
操作盤を見た瞬間、違和感に気づいた。
『1』の下に、小さなボタンがあった。
剥げかけた文字で『B1』と書かれている。
この施設に地下があるとは聞いたことがなかった。
暇つぶしの延長で、私はそのボタンを押した。
ぐにゅり、と湿った感触。
古いスポンジを押したような嫌な柔らかさだった。
エレベーターは沈み始めた。
浮くのではなく、泥の中へ沈んでいく感覚。
照明が瞬き、硫黄の匂いが消え、代わりに濡れた土と錆の匂いが広がった。
扉が開いた。
そこは建物の中ではなかった。
荒く削られた岩肌。
低い天井。
地下水が滴り落ち、闇の奥からズズッ、ズズッと何かを引き摺る音がする。
私は一歩も動けなかった。
闇の奥で何かがこちらへ近づいてくる気配だけが確かだった。
本能が警鐘を鳴らし、私は操作盤を叩いた。
扉が閉まる瞬間、暗闇の中で白くぼんやりと蠢く何かを見た気がした。
一階に戻ると、弟がエレベーターの前に立っていた。
私は弟の腕を掴み、その場から逃げた。
その夜、祖父は妙に機嫌が良かった。
顔色は赤く、酒を舐めるように飲んでいた。
私は祖父の顔を見られなかった。
深夜、目を覚ますと、祖父の布団が空だった。
しばらくして、祖父が丹前を羽織って戻ってきた。
手には小さな布包みを持っている。
「下の階の知り合いにな、渡すもんがあってな」
なぜか私はついて行くと言った。
向かった先は西館のエレベーターだった。
祖父が押したのは『B1』だった。
降下の途中、あの腐敗臭はしなかった。
代わりに、祖父の整髪料と樟脳の匂いが箱を満たしていた。
扉が開く。
そこにはカーペット敷きの薄暗い廊下があった。
倉庫やリネン室の扉が並び、突き当たりに鉄の扉がある。
祖父はその扉の中へ消えた。
一瞬、湯気の向こうに人影のようなものが見えた。
戻ってきた祖父は手ぶらだった。
顔色は艶々していた。
それから数年、地下であの岩の坑道を見ることはなかった。
いつも、あの廊下に出るだけだった。
祖父はやがて亡くなった。
穏やかな死に顔だった。
三十代半ば、体調を崩した私は、二十年ぶりにその温泉地を訪れた。
西館のエレベーターは、記憶のままだった。
『B1』を押す。
今度こそ、扉の向こうには岩の坑道があった。
闇の奥から、老人が這い出てくる。
泥と苔に覆われた顔。
その顔を、私は知っていた。
「やっと来たか」
声は祖父の口調だった。
老人が足首を掴んだ瞬間、冷たい重さが身体に流れ込んだ。
恐怖はなく、奇妙な安堵だけがあった。
気がつくと、私はロビーに立っていた。
体は軽く、顔色は赤味を帯びている。
私は知ってしまった。
なぜ、ここが効くのかを。
外へ出る。
もう、太陽の下へ完全には戻れないとわかっていた。
(了)
[出典:348 :本当にあった怖い名無し:2019/02/20(水) 21:16:22.34 ID:1Y+K6qe40.net]