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中編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2026

四〇メートルの記憶 nc+

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その事務所は、ダム建設現場の切り立った崖にへばりつくように建っていた。

プレハブ特有の安っぽい鉄板の壁は、昼夜を問わず吹き付ける谷風に晒され、絶えず軋んだ悲鳴を上げている。窓の外は、乳白色の霧がすべてを塗り潰していた。視界は五メートルも効かない。ただ、湿気を帯びたコンクリートの匂いと、錆びた鉄の臭気だけが、ここが人間の領域と自然の境界線であることを主張していた。

蛍光灯が一本、切れかけてチカチカと明滅を繰り返している。その不規則なリズムが、私の心拍を少しずつ狂わせていくようだった。部屋の隅には、泥にまみれた安全靴や、図面の束が乱雑に積み上げられている。石油ストーブの上で、薬缶がシュンシュンと沸騰する音が響く。その単調な音だけが、この場の均衡を保っている。

私はパイプ椅子に浅く腰掛け、目の前の男、源田(げんだ)の話を聞いていた。仕事の打ち合わせという名目だったが、外は豪雨になり、我々は一時的な缶詰め状態にあった。源田は六十代半ばだろうか。顔に刻まれた皺は、川底の亀裂のように深い。彼は湯気の立つ紙コップを左手で持ち上げ、ゆっくりとコーヒーを啜った。

気になったのは、彼の右腕だった。
テーブルの上に置かれた右腕は、どこかあさっての方向を向いている。肘から先が、まるで中身の骨が抜かれているかのように、だらりと不自然な曲線を描いて机面に吸い付いているのだ。彼はその腕を、自分の体の一部というよりは、たまたまそこにある置物のように扱っていた。

「ああ、これか」

私の視線に気づいた源田は、自嘲気味に笑った。その笑顔は、目だけが笑っていない。瞳の奥に、暗く冷たい水面が見えるようだった。

「若い頃にね、ちょっと失敗してな。四〇メートルから落ちたんだよ」

四〇メートル。ビルの十階以上に相当する高さだ。通常なら即死、運が良くても植物状態だろう。私が息を呑むと、彼は「まあ、聞けよ」と、まるで天気の話題でもするかのように淡々と語り始めた。

彼の声は低く、そして妙に湿り気を帯びていた。

聞いている私の肌に、ねっとりとした汗が滲む。
私は本来、こうした武勇伝の類は好まない。大抵の場合、それらは誇張と自己顕示欲に塗れているからだ。だが、源田の話には、そうした「飾り」が一切削ぎ落とされていた。彼が語るのは感情ではなく、事実の羅列だ。それがいっそう、私の不安を煽る。

喉が渇く。紙コップに手を伸ばそうとするが、指先が微かに震えているのがわかった。ストーブの熱気のせいではない。源田の右腕が、時折ピクリともせず、ただ重力に従って垂れ下がっている様子が、生理的な嫌悪感を呼び覚ますのだ。それは「怪我の後遺症」という言葉では片付けられない、もっと根源的な「異物感」を放っていた。

「人間、死ぬときは一瞬だなんて言うがな、あれは嘘だ」

源田は天井の染みを見上げるようにして言った。
私は居住まいを正した。背筋に冷たいものが走る。彼の言葉の端々に、死の匂いがこびりついている。窓の外で風が唸りを上げ、プレハブ小屋全体がガタガタと揺れた。まるで、この小屋ごと谷底へ突き落とそうとしているかのように。私は無意識に自分の右腕をさすっていた。源田の右腕と自分の右腕が、見えない糸で繋がれているような、不吉な共鳴を感じていたからだ。

「落ちる時間な、どのくらいあったと思う?」

彼は私に問いかけたのではない。虚空に問いかけていた。
私は答えなかった。答えてはいけない気がした。

「二〇分だったか、二時間だったか……あるいはもっとか。とにかく、長かったんだ」

「足場板がな、パキンと乾いた音を立てて割れたんだ。本当に、割り箸を折るみたいな軽い音だったよ」

源田は左手で空中に線を描いた。

足場が崩れ、体が宙に投げ出された瞬間、世界の色が変わったという。
重力が彼を捕まえ、下へと引きずり込む。その初速のG(ジー)を感じた直後、奇妙な現象が起きた。

「音が、消えたんだ」

風の音も、同僚たちの叫び声も、重機が唸る音も、すべてがプツンと遮断された。まるでテレビのミュートボタンを押したように、完全な静寂が訪れた。
そして、彼は落ちていく。
物理法則に従えば、四〇メートルの落下にかかる時間は三秒程度だ。しかし、源田の感覚の中で、その三秒は無限に引き伸ばされた。

「最初はな、『ああ、俺は死ぬんだな』と思った。意外と冷静だったよ。走馬灯なんて見えやしない。ただ、目の前に迫ってくる灰色のコンクリート壁の、小さなひび割れや、そこに生えた苔の緑色が、顕微鏡で見るみたいに鮮明に見えるんだ」

彼はゆっくりと瞬きをした。

「怖いから、目を閉じたんだ。ギュッと強く。これで終わりだ、次に目を開けるときは死後の世界か、あるいは二度と開かないかだと思ってな」

心の中で一、二、三と数える。
まだ衝撃は来ない。
四、五、六。
まだだ。
おかしい。もう地面に叩きつけられているはずだ。

「俺は恐る恐る目を開けた。そしたら、まだ空中にいたんだよ」

彼の話によれば、景色は流れていた。だが、その流れ方は異様だった。蜂蜜の中を沈んでいくスプーンのように、景色が粘度を持って、ゆっくりと、しかし確実に上へとスライドしていく。
ダムの壁面にあるボルトの頭が、ひとつ、またひとつと目の前を通り過ぎていく。錆びついたボルトの溝まで数えられるほどの遅さだった。

「ああ、まだか、と思ってまた目を閉じる。また数える。十、二十、三十……。風は感じない。体だけが鉛のように重い。でも、地面は来ない」

再び目を開ける。
さっきより、地面が近づいている。
下に見える岩場、転がる資材、水たまり。それらが、ジリジリと、写真のピントを合わせるように拡大されていく。

「これが一番怖かった」

源田の声が僅かに震えた。
一瞬で終わるはずの死が、薄皮を剥ぐように、じわじわと時間をかけて迫ってくる恐怖。
地面は確実に近づいている。だが、その速度は、彼を絶望させるに十分なほど遅く、そして彼を生かし続けるにはあまりに冷酷なペースだった。

「俺はそこで、考え始めたんだ。これからどうやって死ぬか、じゃない。どうやって生き残るか、をな」

彼の目が、私の右腕に焦点を合わせた。

まるで、そこにあるべきでない何かを見るような目つきで。

「柔道をやってたんだ」

源田は唐突にそう言った。
空中で、死の予感と永遠のような時間に挟まれながら、彼は自分の肉体の記憶を探っていたのだという。思考は透明で、恐ろしいほど冴え渡っていた。

「普通ならパニックになるだろ? でもな、時間があり余るほどあるんだ。俺は空中で体勢を確認した。頭が下になっていないか。足はどうなっているか。まるで水中に浮かんでいるみたいに、手足を動かしてバランスを取ろうとした」

しかし、空気には水のような浮力はない。あるのは抵抗だけだ。
彼は、迫りくる地面——岩とコンクリートが入り混じった無慈悲な処刑台——を見つめ続け、そこへどうやって自分の体を着地させるかをシミュレーションし始めた。

「受け身だ、と思った」

畳の上で何千回、何万回と繰り返した動作。顎を引き、背中を丸め、腕で衝撃を散らす。だが、相手は畳ではない。四〇メートルの高さから叩きつけられる岩盤だ。常識で考えれば、受け身など何の意味もなさない。人間の骨など、粉々に砕け散るだけだ。

「でもな、その時の俺には、それしか縋るものがなかった。いや、違うな。あの奇妙な時間の中では、物理法則よりも『意識』の方が勝っているような気がしたんだ。俺が『助かる』と強く念じ、正しい型で落ちれば、世界の方が折れるんじゃないかと」

彼は再び目を閉じたという。
暗闇の中で、彼は自分の体をイメージする。
右腕を前に出し、衝撃を吸収する角度を調整する。
目を開ける。
地面は、もうすぐそこまで来ていた。
さっきまでは米粒のようだった作業員たちが、今は親指ほどの大きさに見える。彼らは動いていない。まるで時間が止まったジオラマの中に、自分だけが侵入していくような感覚。

「地面の凹凸が見えた。尖った岩。水たまりに浮いた油の虹色。捨てられた軍手。それらが、俺を迎え入れようと口を開けて待っていた」

彼は空中で体を捻った。
スローモーションの映像を見ているかのように、自分の体が回転するのがわかった。
狙いを定める。
頭を守る。内臓を守る。
犠牲にするのは、手足だ。
特に、右側。
利き腕である右を、彼は差し出すことに決めた。
それは一種の生贄(いけにえ)の儀式に近かった。

「右腕ならくれてやる。だから命は残せ」

そう念じた瞬間、永遠に続くかと思われた落下が、急激に速度を取り戻した。
止まっていた風が、轟音となって耳を打ち抜いた。
ミュートが解除されたのだ。

「地面が、ドカンと跳ね上がってきた」

激突の瞬間、彼は痛みを感じなかったという。

ただ、凄まじい「音」を聞いた。
グシャリ、とも、バキリ、とも違う。
巨大な肉の袋が破裂し、同時に何本もの乾いた木材が一斉にへし折れるような、不快で湿った破壊音。
それが自分の体から発せられた音だと理解するのに、数秒かかった。

「気づいたら、空を見ていたよ」

彼は薄く笑った。
空は鉛色で、雨粒が落ちてきていた。
その雨粒が顔に当たる感触で、生きていることを知った。
だが、すぐに、遅れてやってきた痛みが、津波のように彼を飲み込んだ。

「痛いなんてもんじゃない。熱いんだ。全身が火だるまになったみたいに熱くて、それから寒気がする。歯の根が合わないくらいガチガチ震えてな」

右腕を見ると、それはあり得ない方向に曲がっていた。
肘関節が逆に折れ、骨が皮膚を突き破り、白い断面が雨に濡れていた。
ブラブラと揺れる自分の手首を見て、彼は「ああ、払ったんだな」とぼんやり思ったそうだ。

救急車のサイレンが聞こえるまで、彼は意識を保っていた。
周囲に集まった同僚たちが、青ざめた顔で彼を覗き込む。
「生きてるぞ」「嘘だろ」という囁きが聞こえる。
普通ならショック死してもおかしくない状況だ。あるいは、脳震盪で記憶が飛ぶのが常だ。北野武がバイク事故を起こした時、一週間分の記憶が消えたという話がある。脳が耐えきれないほどの恐怖や衝撃を、シャットダウンして守ろうとするからだ。

「でも、俺には全部残ってるんだ」

源田は空になった紙コップを握りつぶした。
クシャ、という音が、部屋に響く。

「落ち始めた瞬間の浮遊感。途中で見た壁の染み。何度も瞬きをした回数。そして、地面に叩きつけられた瞬間の、骨が砕ける感触。その全てが、ハイビジョンの映像みたいに鮮明に記録されている」

彼は一万分の一の確率で生き残った。

そして、さらに低い確率で、その恐怖の全貌を記憶するという呪いを背負った。
いや、話はそれで終わりではなかった。

源田は、潰れた紙コップをテーブルに置き、私の方へと身を乗り出した。
その瞳が、爬虫類のように冷たく光る。

「なあ、あんた。俺がなんで、右側から落ちたか、わかるか?」

私は首を横に振った。

彼は「受け身を取るため」と言っていたはずだ。利き腕を犠牲にして、命を守るためだと。

「後悔してるんだよ」

彼の声が、急に低くなった。
雨音が強まり、屋根を叩く音が激しさを増す。

「左側で落ちればよかった、ってな」

「……どういうことですか?」

私は震える声で尋ねた。
右腕一本で済んだのだ。左側を下にして落ちていれば、心臓を強打し、確実に死んでいただろう。命が助かったのなら、右側を選んだ判断は正しかったはずだ。

源田は、動かない右腕を愛おしそうに左手で撫でた。
その指先が、服の上から歪な骨の形をなぞる。

「俺も最初はそう思ってた。医者も言ってたよ。『奇跡的だ、右半身で衝撃を吸収したおかげで内臓破裂を免れた』ってな。リハビリも辛かったが、生きてるだけで丸儲けだと自分に言い聞かせたさ」

しかし、と彼は続けた。

「退院して、現場に戻って、ふと気づいたんだ。……終わってないんだよ」

「終わってない?」

「落ちる感覚だ」

源田は視線を私の背後、窓の外の霧に向けた。

「ふとした瞬間にな、戻るんだ。あの空中に。ベッドで寝ている時、トイレに入っている時、こうしてコーヒーを飲んでいる時。急に音が消えて、体が重くなって、あの灰色のコンクリート壁が目の前をゆっくりと流れ始める」

フラッシュバックか、と私は思った。PTSD(心的外傷後ストレス障害)の典型的な症状だ。

「違う、ただの記憶じゃない」

彼は私の思考を読んだように否定した。

「右腕がな、重くなるんだ。この動かない腕が、鉛のように重くなって、俺をぐいぐいと下へ引っ張る。……わかるか? 俺があの時、右腕を『差し出した』からだ。地面に叩きつけた右腕だけが、あっち側の世界——あの永遠に続く落下時間の底に、杭のように打ち込まれてしまったんだ」

源田の顔が歪んだ。恐怖ではなく、諦観に満ちた表情だった。

「右腕は、まだあそこで落ち続けている。だから俺本体も、この右腕というアンカーを通じて、常にあの四〇メートルの虚空に繋ぎ止められているんだよ。死ぬまでな。……いや、死んでも終わらないかもしれん」

彼の言葉の意味を理解した瞬間、私の右腕にズシリとした重みが走った気がした。
源田は、右側を選んだことで「生」を得たが、同時に「永遠の落下」という時間の檻に捕らわれてしまったのだ。
もし左側を選んでいれば。
心臓を打ち、即死していれば。
彼は「終わり」を得ることができただろう。痛みも、恐怖も、そこで断ち切られていたはずだ。

「左側で落ちればよかった」

彼はもう一度、呪文のように繰り返した。
そして、ニタリと笑った。

「なあ、次はあんたの番かもしれないぞ」

「え?」

「あんた、さっきから自分の右腕、ずっとさすってるじゃないか」

指摘されて、私はハッとした。
私の左手が、無意識のうちに自分の右の二の腕を強く握りしめていた。爪が食い込むほどに。

「俺の話を聞いた奴はな、みんなそうなるんだ。……感染るんだよ、この重みは」

源田が立ち上がった。
その瞬間、私の視界がぐらりと揺れた。
めまいではない。
音が、消えたのだ。

雨音が止んだ。ストーブの沸騰する音が消えた。

プレハブの壁が、ゆっくりと、エレベーターのように上方へスライドしていく錯覚に襲われる。
いや、錯覚ではない。
私の体が、椅子ごと沈んでいく。

目の前の源田が、遠ざかっていく。
彼は動かない右腕をぶら下げたまま、天井の方へと遠ざかりながら、私を見下ろしていた。
その口が動いた。声は聞こえないが、唇の動きではっきりと読み取れた。

『次は、左にしろよ』

私は反射的に目を閉じた。

一、二、三……。

目を開ける。

源田の顔はまだそこにある。だが、少しだけ遠くなっている。
私の体は、あの湿った灰色の霧の中へ、終わりのない落下を始めていた。
右腕が、千切れるほどに重かった。

[出典:977 :可愛い奥様:2017/11/01(水) 17:46:40.85 ID:BVH0MlzW0.net]

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