この話を打ち明けると、必ず周囲が黙り込む。
配属されたばかりの青森・釜臥山(かまふせやま)。標高千メートルを超す場所に、第四十二警戒群のレーダーサイトはあった。空が近く、月光が異様に強い場所だった。
一歩外へ出れば、肌を打つような鋭利な寒気に包まれる。夏でも深夜は薄い手袋が欲しくなるほどで、湿気は一切なく、常に金属が剥き出しになったような、乾いて透明な冷気が支配していた。
サイトのメイン建屋から隣の送信所までは、雪中廊下と呼ばれる、金属製で外気を遮断する階段通路で繋がれている。外は凍てついた白い闇、内部は無機質な蛍光灯の白光。そのコントラストが、視覚を麻痺させた。
夜間の送信所は、特有の匂いで満ちていた。稼働中の巨大な無線機材と電源装置から立ち上る、熱で焼けた埃と、僅かなオゾン、そして何とも言えない鉄錆の混じったような、硬質の匂いだ。それは基地の「体温」であり、外界の冷たさとは無関係に鼓動する、生命のない機械の心臓のようだった。
時刻は深夜の二時を過ぎていた。周囲の音は、天井の換気扇が低く唸る音、そして遠いレーダーアンテナの駆動音だけ。それらが微細な残響を作り、空間を僅かに揺らしていた。まるで、雪の中に沈んだ巨大な潜水艦の内部にいるような閉塞感があった。
外の闇は漆黒ではなく、積雪の照り返しで鈍い銀色に光っていた。窓枠の僅かな隙間からは、凍てつく空気が細い針のように室内に侵入してくる。その寒気が、体温が下がると同時に神経を研ぎ澄ます。
特に、送信所棟はメインサイトの警戒レーダーとは別の、独立した静寂に包まれていた。山頂の風は建物を揺らさないが、低周波の振動だけが、骨の髄に届くように響く。この場所が、恐山の真下にあるという地理的特異性を、肌で感じる瞬間だった。
初めての夜間勤務で、身体は緊張と極度の退屈の狭間に置かれていた。
無線機の自己診断プログラムを走らせるだけの簡単で単調な作業。端末の緑色の文字が、規則正しく流れていくだけだ。
私は、早くも肩甲骨の辺りが凝り固まるのを感じていた。椅子の上で僅かに身動ぎ、硬い合成皮革のシートが微かな摩擦音を立てる。その小さな音さえ、この静寂の中では場違いに響く。
配属直後で、周囲に溶け込もうとする意識が強かった。自分の未熟さや、不慣れな環境への戸惑いを悟られたくない。だから、小さな異変を見過ごしてしまおう、大したことはないと自己暗示をかける傾向があった。
視線は、作業の進捗を示すモニタから、雪中廊下の入り口を映す監視カメラのサブモニタへと滑っていった。そこには何も映っていない。ただ、遠い廊下の曲がり角の白光が、斜めの線を描いているだけだ。
頬の裏側が、ピリピリと乾くのを感じた。長時間目を酷使した結果かもしれない。目を閉じて、額の重みを手のひらに預ける。瞼の裏に、蛍光灯の残像が緑色の網膜として残っていた。
退屈は、人間を最も不安定にする。身体は疲れているのに、脳は小さな刺激を求めて彷徨う。その結果、普段なら無視できる微細な変化にも、過敏に反応し始めるのだ。
私は、自分がこの基地の空気、この場所の静寂に「慣れきっていない」新参者であることを自覚していた。先輩たちの落ち着き払った態度が、私とこの場所との間に明確な壁を作っている。その壁の向こう側は、何もかもが「日常」なのだろう。
不意に、呼吸が浅くなっていることに気づいた。肺の奥まで空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。乾いた室内の空気が、喉の粘膜を僅かに刺激した。この些細な身体感覚の揺れが、次に起こる事態への、神経の舗装のように感じられた。
視線をサブモニタに戻した時だった。
画面右端、雪中廊下の曲がり角付近の、遠く小さな領域。
そこに、横長の影がスーッと現れ、そして、同じ速度でスーッと画面の外へ消えた。
影、と言うにはあまりにも明確な「顔」だった。低い位置、雪中廊下の階段の途中に、中年の男性のものらしい、締まりのない、しかし無表情な顔が、枠の端から三分の一ほど覗いたのだ。
顔は、こちらのカメラを向いているようには見えなかった。単に横方向へ移動しているだけで、瞬きも、表情の変化もなかった。それは、等速で滑る、切り抜き画像のような不自然な動きだった。
その出来事は、長くても二秒ほどで終わった。しかし、私の指先は一瞬で冷え切り、皮膚の表面が粟立つのを感じた。熱源の機械が発する硬質な熱と、背中に走る冷感の、不協和音。
私は慌てて、メインサイトの管理室にいる先輩へと内線で連絡を入れた。声が震えないよう、喉の奥に力を込める。「カメラに、人影のようなものが映りました。送信所の雪中廊下の角です」
受話器の向こうの先輩の声は、驚くほど平坦で無感情だった。「ああ、出るよ。それよりお前の分の自己診断プログラム、ちゃんと結果出たのか」
この反応が、私にとって、顔の出現よりも遥かに大きな、正常からの逸脱の一歩だった。先輩の口調には、驚きも、好奇心も、ましてや恐怖の欠片もなかった。まるで、猫が横切ったのを見た、と報告したかのような淡々とした対応。
私は返答に詰まり、唇の奥で舌を動かす。「はい、完了しています。ただ、その、人影が……」言い淀む私に、先輩は再び同じ台詞を繰り返した。「あー出るよ。終わったなら結果をプリントアウトして、控えを回せ」
この二度目の「あー出るよ」は、一種の**「不問律」**のように私の中に沈んだ。それは、この基地の日常に組み込まれた、説明の必要のない事象として処理されていた。まるで、昼になれば太陽が昇る、という事実と同じ重みで。
その後の数ヶ月間で、奇妙な現象は「当たり前の出来事」として、いくつも私の耳に入り、そして私自身の五感をかすめていった。
厳冬期。零下二〇度を下回る気温。物理的に誰も通れないはずの、厚く雪に覆われた食堂の外で、人が雪を踏みしめる「ザク、ザク」という靴音。同僚たちは、顔色一つ変えず、食事を続けている。彼らは、音の方向へ視線すら向けない。
また別の日。サイト内の休憩室。一人が受話器を取り、内線で誰かを呼び出す。しかし、その電話が「本物」か「偽物」か、音で判別するのだという。本物のインターホン音は乾いて硬質だが、「幽霊インターホン」の音は、微妙に、粘り気のある残響を帯びているらしい。
私は何度もその音を集中して聴こうとした。だが、私の耳には、常に乾いた、硬質な音しか聞こえない。彼らは、耳打ちするように言う。「今のは本物だ。偽物はな、お前の鼓膜の奥じゃなくて、もっと頭蓋骨の内部で鳴るんだ」
この「音の判別」の話を聞いた瞬間、私は全身の毛穴が開くような錯覚に襲われた。恐怖の対象は、幽霊そのものではなく、その幽霊の存在を「当たり前の日常雑音」として処理する、周囲の人間たちの無関心だった。
彼らは、物理法則の逸脱、死者の影、説明のつかない微細な現象を、何の疑問も抱かず、作業効率の低下に繋がるものとして切り捨てていた。彼らの無関心こそが、この場所の「体温の低さ」を象徴していた。
ある深夜。私と先輩は、二人きりで基地の電源を落とす作業に入った。暗闇の中、レーダー装置が停止する時の、巨大な機械が息を吐き出すような、低く長い唸りが響いた。先輩は作業用のランプを頼りに、最終チェックをしていた。
その時、閉鎖されたはずの廊下の奥から、カツン、カツン、と硬い革靴の足音が近づいてきた。私は心臓が喉に張り付くのを感じたが、先輩は作業を止めない。ランプの光が、先輩の無表情な顔を、僅かに照らしていた。
足音は、私たちのすぐ横を通り過ぎ、そして消えた。先輩は、足音が完全に遠ざかったのを確認し、私に言った。「今のは、電源を切った時の音に紛れて聞こえる、ただの残響だ。気にすると、作業が遅れる」
「残響」……そうか、彼らは全ての怪異を、物理的な「残響」「ノイズ」「麻痺」として説明し尽くし、その説明の檻の中に閉じ込めていた。
その徹底した「麻痺」こそが、私が恐怖する「彼らの日常」だったのだ。八年が経過した今も、この場所の住人たちの、その「感覚の同一化」だけが、私にとって最も大きな謎として残っている。彼らの方が、私よりも遥かに、この山に溶け込んでしまっていたのだ。
[出典:167 :あなたのうしろに名無しさんが・・・ :03/09/01 01:07]