あいつがその話をしたのは、二年の夏だった。
サークルの飲み会で、店の奥の丸テーブルに座っていた時だ。まだ誰も潰れていない時間帯で、空調の音と氷の鳴る音がはっきり聞こえていた。あいつは唐突に黙り、ジョッキの縁を指でなぞりながら言った。
「気付かなければ、成り立つことってあるよな」
前置きもなく、そう切り出した。
その日の夕方のことだという。下宿先の部屋で、机に肘をつき、文庫本を読んでいた。夏の西日が窓から差し込み、床に四角い光を落としていた。光の中で埃がゆっくり舞っていたらしい。外はまだ明るく、蝉の声が遠くで途切れずに鳴いていた。
その時、窓を叩く音がした。
乾いた、硬質な音だったという。コン、と一度。間を置いて、コン、コンと二度。ガラスが微かに震えた。
振り向くと、窓の外にBがいた。
汗で額を濡らし、頬を赤くし、必死の顔でガラスを叩いていた。口が動いている。何か叫んでいる。音は聞こえない。あいつは慌てて立ち上がり、窓に近づいた。
そこで違和感を覚えたらしい。
窓の向こうに、足場がない。
あいつの部屋は五階だった。窓の外はすぐ空間で、ベランダも非常階段もない。壁がまっすぐ地面まで落ちているだけだ。
それでも、Bはそこに立っていた。
立っているというより、空中に“固定されている”ように見えたという。足元は見えない。だが、確かにそこにいる。窓枠に指をかけ、必死に何かを訴えている。
あいつは迷った末、窓を少し開けた。
途端に、Bが顔を突き出して言った。
「聞いてくれ。さっき河原を走ってたんだ。自転車で」
息が荒い。言葉が途切れ途切れになる。
「チェーンが外れてた。後輪、空回りしてた。でも、進んでた。ずっと、漕げてた」
意味がわからない、とあいつは思ったという。
Bは続けた。
「気付いたんだよ。回ってないって。そしたら、急に進まなくなった。そこで止まった。おかしいよな」
あいつは、窓の外の“それ”を見ながら、背筋が冷えたと言った。
「……B。ここ、五階だぞ」
その言葉に、Bは一瞬だけ黙った。
そして、怪訝そうに眉を寄せた。
「は?」
その瞬間、視界が空になった。
Bの姿は消えていた。落ちる音もなかった。悲鳴もなかった。窓の外はただの夕空だった。蝉の声が、さっきと同じ調子で鳴いていた。
あいつはしばらく動けなかったらしい。窓を閉め、部屋の真ん中に立ち尽くした。床の四角い光も、舞う埃も、そのままだった。
その夜、Bから連絡はなかった。翌日の講義にも来なかった。携帯に電話しても繋がらない。実家に確認すると、Bはその日から帰っていないという。
「気付かなければ、漕げてたんだよな」
あいつはそう言って、ジョッキを持ち上げた。
「気付いた瞬間に、成り立たなくなる。たぶん、あれも同じだ」
誰かが冗談めかして言った。「お前、酔ってんのか」と。
あいつは笑った。
「かもしれない。でもさ。今こうして座ってるのも、誰かが“気付く”までは成り立ってるだけかもしれない」
その場にいた全員が、なんとなく黙った。
店の窓は一階で、外には通りが見えていた。酔客が歩き、タクシーが止まり、ネオンが揺れている。どこにも異常はない。
あいつはふと、窓の方を見た。
「もし、今あそこに誰か立ってたらさ」
誰も続きを聞かなかった。
その夜はそれで終わった。
翌週、あいつは講義に来なかった。サークルにも顔を出さない。連絡はつかない。下宿先を訪ねた友人が言った。
「部屋、普通だった。机も、本も、そのまま。窓も閉まってた」
五階の、あの窓だ。
管理人は言ったらしい。「そんな学生は住んでいない」と。
名簿を確認しても、あいつの名前はなかった。
俺たちは顔を見合わせた。確かに一緒に飲み、笑い、講義を受けていたはずだ。だが、写真を探しても写っていない。集合写真の隅にあったはずの影が、消えている。
誰かが、ぽつりと呟いた。
「気付いたんじゃないか」
何に、と聞く前に、言葉は途切れた。
それ以来、俺は高い場所の窓を見ると、反射的に五階かどうかを数えるようになった。自転車のチェーンが外れていないかも確認する。
漕げているからといって、回っているとは限らない。
立っているからといって、地面があるとは限らない。
そして今、こうしてあの話を書いている。
もし、読んでいるあなたが、ふと窓の外を見たくなったなら。
そこに誰かが立っていたとしても、五階かどうかは、できれば確認しない方がいい。
気付いた瞬間に、成り立たなくなるものがある。
それが自転車だけとは、限らない。
[出典:129 :本当にあった怖い名無し:2007/07/04(水) 13:34:50 ID:Ue07ijGRO]