俺の母は、小学校の教師をしていた。
ごく普通の公立校で、特別学級でも進学校でもない。ただ、母自身は「普通の教師」ではなかった。
母は、見える人間だった。
霊感と呼ぶのが一番近いが、本人はその言い方を嫌っていた。感じてしまう、気づいてしまう、逃げられない。それだけだと言っていた。赴任先によっては夜まったく眠れず、授業中も顔色が悪いまま立っていることがあった。俺が中学生だった頃の母は、いつも疲れ切った目をしていた。
十年前、母は四年生の担任になった。
そのクラスに、Aという少女がいた。
入学当初から噂の多い子だった。
誰それが死ぬとか、校庭の隅に何がいるとか、そういうことを平然と口にする。最初は虚言癖だと片付けられていたが、ある上級生の自殺を事前に言い当てたことで空気が変わった。以降、Aは触れてはいけない存在になり、やがて露骨ないじめを受けるようになった。
母は、初めて彼女と目を合わせたときに分かったという。
この子は、自分と同じ側に立っている。
Aは情緒が不安定だった。強い感情に引きずられると、教室の机が揺れたり、椅子が勝手に倒れたりすることがあった。偶然で済ませるには無理がある現象だった。母は彼女に、力を口にしないこと、感じても表に出さないことを繰り返し言い聞かせた。封じることを教えたのだ。
それが正しかったのかどうか。
今でも分からない。
一年後、Aは五年生になり、再び母が担任になった。
その年の秋、事件が起きた。
夕方、学校から電話が入った。
児童が一人、下校途中で行方不明になっているという連絡だった。母は職員室に戻り、他の教師と合流した。夜になっても見つからず、警察も動き始めた。学校全体が沈んだ空気に包まれていた。
深夜、職員室の電話が鳴った。
受話器を取った母は、声を聞いた瞬間に身体が硬直した。
Aだった。
「先生、学校で……誰か、いなくなってませんか」
母が問い返すと、Aは震える声で続けた。
「夕方から、ずっと同じ映像が離れないんです。古い病院。血の匂いがして、肩が重くて、呼吸が苦しい。でも、そこに……生きてる人がいる。中から、出してって」
母は一瞬、迷った。
そして、その迷いを振り切るように職員室を出た。
Aを迎えに行き、コンビニの駐車場で合流した。
車内で向かい合った彼女は、顔色が異様に悪く、指先が小刻みに震えていた。彼女が指し示したのは、市外れにある廃病院だった。何年も前に閉鎖され、立ち入り禁止になっている場所だ。
道中、車のライトが一瞬だけ消えた。
ラジオから、周波数の合わない声が割り込んできた。母は無言でハンドルを握り続け、Aは目を閉じて何かを呟いていた。
病院に着いた瞬間、ふたりは同時に吐き気を催した。
空気が重い。湿気ではない、まとわりつくような圧迫感だった。母は数珠を握り、簡易的な結界を張ったという。どこまで意味があったのかは分からない。
Aは迷わず中へ入っていった。
長い廊下を進み、手術室の前で立ち止まった。扉の向こうで、確かに生きている気配がした。扉を開けると、失神した児童が倒れていた。
その子は助け出された。
だが、扉は内側からしか開かなかったはずだという。
病院を出た瞬間、圧迫感は消えた。
それが、かえって不自然だったと母は言っていた。
それから九年後。
俺は上京し、仕事で一人の女性と出会った。初対面なのに、なぜか胸の奥が落ち着かなかった。視線が合った瞬間、説明のつかない違和感があった。
名前を聞いたとき、はっきり分かった。
彼女が、Aだった。
互いに驚きながらも、仕事を通じて距離は縮まった。やがて母とも再会した。六月、彼女は俺の妻になった。
結婚前、彼女は一つだけ奇妙なことを言った。
「あなたのお母様……○○市で教師をしていた○○先生じゃありませんか」
どうして分かったのかと聞くと、彼女は視線を逸らした。
「前の日から、ずっと顔が浮かんでいて。理由は分からないんです。ただ、思い出さないといけない気がして」
母はその話を聞いて、黙り込んだ。
そして、こう言った。
「あの夜から、私は眠れるようになったのよ」
最近、妻は時々、俺を引き止める。
理由は言わない。ただ「今日はやめた方がいい」と。
先日、止められた電車に乗らなかった。
その電車は、人身事故で止まった。
代わりに乗った別路線で、俺は知らない誰かとすれ違った。
なぜか、強く目が合った。
その人が、どこへ行ったのかは知らない。
俺は考える。
あの夜、母と妻が病院に行かなければ、何が違っていたのか。
助けられたのは、本当に一人だけだったのか。
封じたはずのものは、今どこにあるのか。
答えは出ない。
ただ、関わってしまった以上、完全に外に戻ることはできない。
それだけは、分かっている。
[出典:41 :本当にあった怖い名無し:2008/09/21(日) 01:49:51 ID:HJXUQLbYO]