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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

落ちる直前 nw+840

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横断歩道の白線の手前で、足が止まった。

右から車が来ていた。信号は青。渡ってもおかしくはないが、待てばやり過ごせる距離だった。だから立ち止まった。それだけのはずだった。

それでも、背中に圧がかかった。

触れられたわけではない。風でもない。ただ、後頭部の奥を押されるような感覚があった。

渡れ。

声ではない。意味だけが滑り込んできた。

気づけば足が出ていた。一歩。もう一歩。

その瞬間、右から来た車が唐突に蛇行し、タイヤを鳴らしながらスピンした。白線の上を削り取るように横滑りし、さっきまで自分が立っていた場所を正確になぞって、背後のフェンスに突き刺さった。

鉄が軋み、何かが砕ける音がした。生暖かい空気が首筋を撫でる。焦げたゴムと、金属と、血に似た匂いが混ざった。

あと半歩遅れていたら、そこにいた。

振り返った。誰もいない。信号機が規則正しく点滅しているだけだった。

あの一歩は、自分の判断だったのか。

答えは出なかった。

東名を走っていたときも、似た感覚があった。

前方にふらつく軽自動車がいた。車間を詰めるでもなく、ただ速度を合わせて流していた。追い越す必要はない。

それでも、胸の奥がざわついた。

抜け。

また、意味だけが落ちてきた。

理由はなかった。焦りもない。ただ、今この瞬間に前へ出なければならないという確信だけがあった。ウィンカーを出し、アクセルを踏む。

軽を抜いて十数秒。

ルームミラーの奥で、景色が歪んだ。後方から迫ったトレーラーが、軽の後部を押し潰した。車体が波打つように折れ曲がる。さらに別の大型車が巻き込み、横転する。

衝撃は音より先に視界に来た。

ニュースになった。多重衝突。死者あり。

自分の位置は、ほんのわずかに前だった。それだけで、何も起こらなかった。

運が良かった、と言われればそれまでだ。

だが、あの「今だ」という感覚は、偶然の顔をしていなかった。

似たことが何度もある。

川で溺れかけたとき、足首を掴まれた気がした。引き上げられた岸辺に、人はいなかった。けれど、手の形だけは確かだった。

階段から落ちそうになったとき、誰かが肘を掴んだ。振り返っても壁しかない。

落ちる直前に限って、引き戻される。

守られている、と最初は思った。

だが、回数が増えるにつれ、別の疑問が生まれた。

なぜ、そんなに正確に「落ちる瞬間」だけを知っているのか。

なぜ、落ちる前ではなく、落ちる直前なのか。

助けられているのか。

それとも、落ちる寸前まで見届けられているのか。

最近、気づいたことがある。

背中を押される感覚は、危険のときだけではない。

道を間違えそうになったとき。
誰かと出会いそうになったとき。
何かを選び損ねそうになったとき。

必ず、少しだけ遅れてやってくる。

観察されている、という感触がある。

祈りでも、守護でもない。
もっと無機質で、冷静で、計測するような視線。

こちらの生死や選択を、外側から測っている何か。

もしそれが「守り手」なら、なぜ名乗らない。

もし味方なら、なぜ沈黙する。

ある夜、ふと思った。

あれは、自分を生かしているのではなく、死なせないようにしているだけではないか。

死ぬ瞬間を、まだ迎えさせないように。

適切な位置に置き続けるために。

その位置が、どこへ向かっているのかは、知らされていない。

今も、ときどき背後に圧を感じる。

振り向かない。

振り向いたら、そこに何かが「いる」と確定してしまう気がするからだ。

ただ、心の中で一度だけ呟く。

わかっている。

覚えている。

ありがとう、とは言わない。

それが何のために自分を残しているのか、まだ知らないからだ。

──今日もまた、落ちる直前で止められた。

次は、どこまで行けば落ちるのだろう。

[出典:410 :本当にあった怖い名無し:2024/08/27(火) 10:09:56.62 ID:XA8L3kBU0.net]

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