実家の玄関には、古びた上がり框がある。
リノベーションはされているが、段差の多い古い家で、その中でも特にその段差は大きく、四十センチほどもある。そこに一枚板の式台が突き出している。祖父の話では、祖母の実家から贈られたものらしい。特別な木から切り出した記念の板だと聞かされていた。
不思議なのは、その式台の左端に物を置くと、必ず夢を見ることだ。
夢は決まって、そこを踏むところから始まる。足の裏が沈み、ぐにゃりとした感触が返ってくる。木のはずなのに、確かな弾力があり、生き物の腹を踏んだような感覚が残る。次の瞬間、視界が切り替わり、リビングの引き戸がわずかに開いている。祖父がそこに座っている。背筋を伸ばし、こちらを見ているが、口は固く閉ざされたままだ。何かを伝えようとしているのは分かるのに、言葉だけが落ちてこない。
間もなく、家の奥から重い音が響き出す。畳を這い回るような、不自然に低い足音。走っているはずなのに、跳ねない。金属と漆器が擦れ合うような嫌な響きが混ざり、家全体がわずかに震える。そして、ずんぐりとした何かが現れ、部屋を見回し始める。私は動けない。息を殺し、見つからないようにすることしかできない。
それが何なのか、目覚めてから思い出そうとすると、必ず別の像にすり替わる。黒い仮面、機械的な呼吸音。どう考えても見覚えのある映画の登場人物だ。だが、それは明らかに代用品だった。輪郭だけが残っていて、本当の姿には触れさせないよう、記憶そのものが逃げている。低い背丈、異様に発達した肩と脚。夢の中では動けないのに、重みや音、祖父の視線だけは現実のように鮮明だった。
祖父が生前、式台の左端にいつもタオルを置いていた理由を尋ねたことがある。少し間を置いてから、祖父は言った。
「あの家はな、余計なものを抱えてきた家だ。板もそうだ。だから印を乱すな。左に物を置くな」
なぜ左なのかを聞こうとすると、祖父はそれ以上語らなかった。ただ、言葉の端々に、触れてはいけないものを長く見張ってきた人間の疲れが滲んでいた。
後になって、詳しい友人がぽつりと漏らしたことがある。「人の出入り口には、触れてはいけない側がある。間違えると、中と外の区別が曖昧になる」理由は説明されなかったが、なぜか妙に腑に落ちた。
妹が帰省してきた夜、彼女は同じ夢を見たと言った。祖父と、鎧のようなものをまとった何かが出てきた、と。玄関を見ると、式台の左端に妹のキャリーケースが置かれていた。夢の内容を聞くと、妹の方がはっきり覚えていた。“それ”に見つかり、近づかれたが、祖父に庇われたという。なぜ自分ではなく妹なのか、その理由だけは考えないようにした。
祖父は何かを守っていたのだと思う。だが、閉じ込める方法を知らなかった。だから物を置き、語らず、見張り続けた。夢の中でも祖父は黙っていた。ただ一度、最後に見た夢でだけ、彼は言った。
「封じるな。忘れるな」
結界とは記憶だ。正しく覚えている間だけ、境は保たれる。踏んだ位置を、現実で踏まないために。私は今夜も、眠る前に式台の左端を思い出す。思い出し方を、間違えないように気をつけながら。
[出典:840 :一枚板の式台 1/3:2024/06/22(土) 20:01:07.28 ID:b5lOLthO0.net]