研究棟を出たとき、構内はすでに閉鎖時間を過ぎていた。
大学三回生の秋だった。湿り気の残る空気に、夜だけが先に冷えていく。山の上に建つ小さな大学で、周囲に店も民家もない。最終バスはとうに行ってしまい、残されたのは下山する一本道だけだった。
その日は実験がうまくいかなかった。生体データが揃わず、教授の機嫌も悪い。研究室に残る意味があるのかどうかも分からないまま、気づけば夜になっていた。
門を抜け、山道に出た瞬間、空気の質が変わる。等間隔に立つ街灯は頼りなく、光は足元だけを白く浮かせて、すぐ闇に飲まれる。舗装はされているが、両脇は草むらと斜面。自分の靴音だけがやけに大きく響いた。
スマホのライトをつけて歩き始めて、十分も経たない頃だった。
背後から、エンジン音がした。
この道を車が通ること自体は珍しくない。だが、その音は妙に濃かった。山の静寂を切り裂くように、存在を主張してくる。振り返ると、ヘッドライトが白く揺れている。
車は俺を追い越し、数十メートル先で止まった。テールランプが赤く道を染める。エンジンはかかったまま。だが、ドアは開かない。人が降りてくる気配もない。
嫌な予感がした。足が止まる。
次の瞬間、クラクションが鳴り響いた。短くではなく、連続で、執拗に。夜の山に不釣り合いなほど乱暴な音だった。その直後、怒鳴り声のようなものが混ざる。「おい」「こっちだ」言葉としては曖昧だが、感情だけが剥き出しで飛んでくる。
理屈ではなく、身体が逃げろと判断した。
俺は来た道を逆走した。何度も振り返る。車はその場から動いていない。それなのに、距離が縮まっている気がする。視線のようなものが、背中に貼りついて離れない。
途中で低いフェンスに気づき、よじ登って畑に飛び込んだ。草を踏み、土に滑りながら、大学の敷地へ向かう。背後の音は、いつの間にか消えていた。
駐車場の灯りが見えたとき、膝が抜けそうになった。光の下に、一台の車と、その横に立つ男子学生の姿があった。
見知らぬ顔だったが、そんなことはどうでもよかった。
事情を説明すると、彼は戸惑いながらも車に乗せてくれた。助手席に座ると、ようやく心臓の音が落ち着き始める。
「変な車に追われた」
それだけを繰り返した。彼は静かに頷き、「大丈夫」と言った。
下まで送ると言われ、後部座席に移った。なるべく外から見えないように身体を低くする。走り出した車内で、俺は何度も訊ねた。
「さっきの車、停まってませんでしたか」
彼は即答した。
「誰もいなかった。車も見てない」
山道はいつも通りだったという。エンジン音もクラクションも、何も。
町の灯りが見え、部屋の前まで送ってもらった。礼を言い、鍵を開け、ベッドに倒れ込む。靴も脱がずに眠った。
翌朝、ニュースで知った。
昨夜、あの山道で車が崖下に転落した。二十代の男女二人が死亡。発見は深夜。車は道路脇のガードレールを破って転落していたという。
事故の正確な時刻は公表されていなかった。
映像に映った現場は、俺がフェンスを越えたあたりだった。赤いテールランプの残像が、脳裏に重なる。
もしあのとき、俺が立ち止まっていたら。もし、車に近づいていたら。
あるいは、あの車が止まった場所は、すでにガードレールの外だったのではないか。
あの男子学生の車で下山したとき、俺はずっと後部座席に横になっていた。顔も、はっきり見ていない。
ニュースで死亡したのは男女二人とだけ報じられていた。目撃者の情報はないという。
それ以来、あの山道を歩いていない。
だが、研究室に残って遅くなった夜、ふと窓の外に目をやると、構内の奥の暗がりに、赤い光が点っている気がする。
エンジンは聞こえない。
ただ、止まったままの車が、誰かを待っているように見える。
[出典:985 :本当にあった怖い名無し:2022/01/08(土) 17:21:19.83 ID:tEvYmMZE0.net]