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帰る場所 rw+4,204

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二十五になったばかりの春、数年ぶりに実家へ帰った。

父が入院したからだ。

軽い胃がんで、早期だから心配はいらないと聞いていた。それでも久しぶりに見る実家は妙に小さく感じた。薄曇りの空の下、田んぼに張られた水だけが風を受けて細かく震えていた。

茶の間では、母が新聞を広げていた。

俺が向かいに座ると、母は湯呑を両手で包んだまま言った。

「そういえば、あんたが小さい頃の話、覚えてないよね」

もちろん覚えていなかった。

俺は幼い頃、かなり体が弱かったらしい。入退院を繰り返し、点滴や注射ばかり受けていた。骨髄液を採る検査も二度やったという。

そんな頃、京都から一人の判子屋が町へ来た。

家々を回り、姓名判断をしながら印鑑を売る老人だった。

母も深く考えず、家族全員の名前を見てもらった。

俺の名前を見たときだけ、老人の顔色が変わったという。

「これはいけません」

画数も漢字も悪い。

このままでは二十歳まで生きられない。

母が笑って流そうとすると、老人は本気で怒ったらしい。

そして言った。

「この子には実印を作りなさい。普通より二ミリ大きいものを」

その日、老人はもう一軒、同じような名前の子を見たとも言った。

「めったにありません。同じ日に二人も見るとはね」

その子も、長くは生きられない。

母は結局、俺の実印を作った。

桐箱に入った、少し大きな黒い印鑑だった。

それから俺は、嘘のように丈夫になった。

小学校へ上がる頃には病院通いもほとんどなくなり、中学では普通に運動部へ入った。

中学一年の春、二つ上の先輩が部活中に突然倒れ、そのまま亡くなった。

当時の俺は、その出来事と判子屋の話を結びつけることなどなかった。

そもそも判子屋の話自体、知らなかった。

今回、母から初めて聞いた。

「あのとき、もう一人いたって言ったでしょう」

母は先輩の名前を口にした。

俺は何も言えなかった。

老人が同じ日に見たという、もう一人の子。

それが、その先輩だった。

母が判子屋を信じる理由は、ほかにもあった。

一つ下の従弟も、同じ老人に「長く生きられない」と言われていた。

その従弟は先天性の珍しい病気を患い、六歳で亡くなった。

「だからね」

母は湯呑を置いた。

「あの人の言うことだけは、どうしても気になるのよ」

判子屋は、俺が帰ってくる二日前にも実家へ来ていた。

何十年ぶりかだったという。

父は船乗りで、長い航海に出ることがあった。

その話になったとき、母が何気なく、

「実印なら船に持って行ってますよ」

と言った。

すると老人は、ひどく嫌な顔をしたらしい。

「実印は、帰る場所に置いておくものです」

母はその言い方を真似た。

ゆっくり、区切るような声だった。

「持って出るものじゃありません。帰って来られなくなりますよ」

父が胃がんで入院したのは、その少しあとだった。

もちろん、病気と判子に関係があるはずはない。

早期発見だったし、医者も心配はいらないと言っている。

それでも母は、茶の間で何度も同じ言葉を繰り返した。

「帰る場所に置いておくものなんだって」

夕方、二階の自分の部屋で荷物をほどいていると、机の引き出しの奥から桐箱が出てきた。

見覚えはなかった。

蓋を開けると、黒い実印が一本入っていた。

普通のものより、ほんの少し太い。

これが、あの判子なのだろう。

二十歳まで生きられないと言われた俺のために、母が作った実印。

指でつまみ上げると、思ったより重かった。

印面には、当然だが俺の名前が彫られている。

そのとき、階下から母の声がした。

「それ、持って行かないでね」

手が止まった。

母は続けた。

「その判子は、そこに置いといて」

俺は返事をしなかった。

母には、俺が今、何を手にしているのか見えるはずがなかった。

桐箱に戻し、蓋を閉めた。

それから一度だけ、持って帰ろうかと思った。

自分の実印なのだから、自分が持っているほうが普通だ。

けれど結局、そのまま引き出しへ戻した。

今もあの判子は、実家の二階にある。

俺が一人暮らしをしている部屋には、実印がない。

それで困ったことは一度もない。

ただ、実家を出るたびに思い出す。

あの老人は、実印を「家に置け」とは言わなかった。

「帰る場所に置いておきなさい」

そう言ったらしい。

[出典:913 :本当にあった怖い名無し:2010/07/14(水) 09:43:17 ID:5iLMIDEL0]

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