あれはもう数年前のこと。関西に住む彼女と遠距離恋愛をしていて、三連休を使って会いに行こうと、知人から車を借りた。
東京から出発したのは、夜の十一時をまわったころだった。
仕事を終えたばかりで体はクタクタ。でも、彼女に会えると思うと、不思議と眠気はなかった。むしろテンションが上がって、久々の高速ドライブを楽しんでいたくらいだ。
途中で仮眠をとるつもりだった。だが、なかなかタイミングが掴めず、浜名湖あたりで休憩を取ろうと決めた。売店が開いてたら、名物のうなぎパイでも買っておこうと思って、スピードを緩めた。
サービスエリアに着くと、店はもう閉まっていて、自販機でジュースを一本買った。夜の空気は蒸し暑く、湖の近くだから少しは涼しいかと思っていたが、期待は外れた。
車を少し離れた場所に移動し、シートを倒して目を閉じた。窓を少しだけ開けて、エンジン音も消え、ようやくまぶたが重くなった、そのときだった。
コツコツ……と、窓をノックする音。
反射的に目を開けると、黒いワンピース姿の若い女が立っていた。肩が出たノースリーブ、白い肌に、艶やかな黒髪。あまりに場違いで、現実味がなかった。どこか冷たい光をまとっているような、そんな雰囲気だった。
「どうしました?」
とっさに声をかけた。口の中が乾いて、うまく声が出なかった。
「名古屋まで……行きたいんです」
抑揚のない声だった。はっきり聞こえたはずなのに、意味がうまく頭に入ってこない。名古屋なんて途中で降りる予定はなかったし、そもそも、今は夜中の二時過ぎ。
戸惑っていると、女が小さく頭を下げて、立ち去ろうとした。
「いいですよ、乗ってください」
自分でも驚くほど即答していた。異常な状況だとわかっているのに、声が勝手に出た。こんなこと、人生で二度とないかもしれない。そう思ってしまったんだ。
女は一瞬、微笑んだ気がした。だが、助手席には乗らず、後部座席の真ん中に座った。警戒心か、それとも……。
車を出そうとすると、トラックの影から、ふたりの若い男がこっちをじっと見ていた。ひとりは、開けっぱなしの車のドアの前に立って、こちらを上目遣いに見ていた。何か言いたげだったが、結局そのまま黙っていた。
ライトをつけて走り出すと、後部座席の女がミラー越しにじっとこちらを見ていた。何か話しかけようとしたが、タイミングが掴めず、言葉が出なかった。
「ちょっと気分が悪いので……横になります」
それだけは、はっきり聞こえた。トンネルの中で、騒音が響くなか、妙にクリアな声だった。
慌ててバックミラーを見ると、もう女の姿はなかった。座席にうつぶせになったのか、それとも……。少し混乱しながら、しばらくは黙って運転を続けた。
しかし、心は落ち着かなかった。彼女への罪悪感と、目の前の得体の知れない女に対する不安。ハンドルを持つ手が汗ばむ。次第にスピードも上がっていた。
ゆるやかなカーブのトンネルで、突然、壁が迫ってきた。とっさにハンドルを戻す。クラクションが反響し、心臓が跳ねた。メーターは一五〇を超えていた。
俺は完全に動揺していた。
「具合……どう?」
少し落ち着いたところで、後ろを振り返った。女の姿は見えなかった。寝ているのかと思った瞬間、運転席の左肩に、冷たい指がそっと触れた。
「だ、大丈夫?」
声をかけると、女は呻くように「水を……」とつぶやいた。
急いで次のパーキングエリアに車を入れ、外に出た。コンビニでエビアンを買って戻ると……後部座席は空っぽになっていた。
辺りを探したが、女の姿はどこにもなかった。トイレも、休憩所も見た。誰も、そんな女を見たと言わなかった。
放心状態で車に戻ったとき、携帯が鳴った。彼女からだった。
「……さっき、嫌な夢を見て起きたの」
どんな夢だったかと聞いて、凍りついた。
――俺が事故を起こし、救急車で運ばれている夢。
――そのとき、知らない女が付き添っていて、「あなたも連れて行くわよ」と彼女に話しかけてきたと言う。
その女の姿も、服装も、俺しか知らないはずの車の中も、彼女はなぜか言い当てた。
俺は話せなかった。何が起きていたのか、俺にも分からなかった。ただ一つ、彼女からもらった室生寺の木彫りの根付が消えていた。紐だけを残して。
それから東京に戻るまで、彼女に言えずじまいだった。
……数ヶ月後、俺のアパートの郵便受けに、ボロボロの根付が放り込まれていた。紐はほどけ、木の部分は削れ、何かに焼け焦げたように黒ずんでいた。
嫌な予感がして、車を貸してくれた知人に連絡した。忙しくて私用では乗っていないと言っていた。ホッとした。
だが、年末のある日、共通の友人から連絡が入った。
その知人が、数百キロ離れた土地で交通事故を起こして亡くなったと。自宅を出るときには、「ちょっと出かけてくる」としか言っていなかったらしい。
まさかと思った。……だが、今も信じている。
あの女は、まだあの車にいたのだ。あのとき、俺を連れて行けなかった代わりに、別の誰かを――。
彼女に室生寺のことを聞いた。尼寺があるとだけ、覚えていたらしい。
あの女も、かつてそこにいたのかもしれない。生きていた頃、何か未練を残して。
だから、次に車に乗った男を、今度こそ連れて行ったのだ。
……今も、高速の夜道で、誰かをじっと見つめているのだろう。
(了)