出張で長野に行ったときの話だ。
地方の話をするのに「田舎」って言葉を使うのは少し気が引けるけれど、やっぱり都市部とは空気の濃度からして違う。呼吸するたび、肺の内側まで冷えていくような感覚がある。
長野といえば山と森。けれどその静けさの中で妙に目立つのが、あちこちに点在する自動販売機の群れだ。道路脇やら山の入り口やら、人の気配がまったくない場所に、明らかに場違いなまでに整然と並ぶ光の箱たち。しかもメーカーのロゴなんてない。コカ・コーラもキリンも伊藤園もごっちゃ混ぜ。管理してる業者がいるとすれば、ちょっとした奇人か、あるいは……なんて、考えるだけ無駄なことを車の中で思ったりしてた。
その日は昼から営業先を数件回って、なんとか仕事を終わらせたものの、もう外は真っ暗だった。夕飯を食べ損ねていたのもあって、胃の奥がきゅうっと締め付けられるように痛んでいた。
ホテルまでナビで見ると、まだ一時間はかかる。山道だし、気を抜いたらスリップするような舗装状態。慎重に運転しつつも、どこかで休憩を入れたかった。
しばらく走っていると、ぽつんと、道の先に明かりが見えた。こういう場所ではとにかく光が貴重だ。近づいていくと、やはり例の自販機群だった。
ちょうどいい。コーヒーでも買って頭を切り替えよう。
そう思って車を端に寄せ、エンジンはかけっぱなしのまま、財布を手に外へ出た。
空気が冷たい。吐いた息がすぐに白くなって、身体の境界線がわからなくなるほど。
無糖のブラックコーヒーを一缶買って、取り出し口から取り上げる。そのまま車に戻ってもよかったけど、なんとなくラインナップを眺めていた。どこか懐かしい、昭和っぽいデザインの缶ジュースや、見たこともないパッケージの栄養ドリンクが混じってる。
ふと視線を横に移すと、列の一番端に、それがあった。
インスタントの証明写真機。
「は？」って声が漏れた。ここに？山道に？なんで？
明らかに違和感しかない。背中が寒くなった。機械自体は見慣れてる。街中の駅前なんかに設置されてるやつとまったく同じ作り。でもこんな場所で、それはまるで祠か、異界の入口みたいにポツンと建っていた。
「どうせ壊れてるか放置されてるんだろ」と自分に言い聞かせながら、数歩近づいた。
その瞬間だった。
中に、いる。
カーテンの下から、足が見えた。がっしりとした、男の足。しかも裸足。皮膚の質感まではっきりわかるほど、隣の自販機の光が足元を照らしていた。
「なんで裸足……？」
動けなくなった。頭の中に警鐘が鳴り響く。
こんな夜に、こんな場所で、誰が証明写真なんて撮る？ ましてや裸足で？ 自販機のスペースには自分の車しかない。周囲は完全に闇。
引き返さなきゃ。
だけど足が重い。砂利を踏む音が耳について、鼓動と同調していく。足音が響くたび、写真機のカーテンの向こうの足は……びくりともしない。
妙に、それが怖かった。
「普通の人間なら、気配に反応するはずだ」
あれは人間じゃないのか？
半ば無意識に、車へと後退する。一歩ごとに「帰れ」と念じる。次の瞬間にも、あのカーテンがばっと開くような予感に押し潰されそうだった。
車まで、あと一歩。
ドアのノブに手をかけた、その瞬間。
「……カタン」
写真機から、小さな排出音がした。
証明写真が出てきた音だった。
心臓が跳ね上がった。叫び声が口から漏れそうになる。慌てて車に乗り込み、ドアを乱暴に閉め、アクセルを思いきり踏みつけた。
砂利を蹴り上げながら車体が震える。
来るな、来るな、来るな。
ルームミラーを見た。追ってくるものは、いない。
それでも安心できない。暗闇の中に光だけが浮かんで見える。あの自販機の、写真機の光。小さく、遠くなっていくのに、まるで瞳のようにこちらを見ていた。
ようやくスピードを落とせたのは、街灯と民家の明かりがポツポツと見え始めた頃だった。
身体から力が抜けた。ハンドルを握る手が汗でびっしょりになっているのに気づいた。
「あの写真……何が写ってたんだろう」
思わず呟いた。
だが確認するつもりは一切なかった。写真のことも、あの足も、すべて頭の中から消したかった。
コンビニに立ち寄って、なぜか未開封のまま手にしていたコーヒーをゴミ箱に放り込み、代わりの缶コーヒーを買った。味もわからないまま飲み干して、そのままホテルに向かった。
今でも、あの時の足の白さと、写真機のカタンという音だけが、耳と脳の奥にこびりついている。
……
たまに、夢に出るんだ。あの写真。
中には、俺が写ってる。
カーテンを開けて、何かが入ってきた、その直後の俺の顔。驚きとも恐怖とも違う、なんとも言えない、虚ろな顔。
その後ろにある何かの輪郭が、少しずつ、はっきりしてきている気がする。
……
次に夢を見たとき、その何かが俺の名前を呼んだら、どうすればいいんだろう。
[出典:2011/08/19(金) 12:40:27.31 ID:Jtc7rX3T0]
