読者さまからのコメントを拝受し、ご指摘いただいた点を踏まえ、リライトしました。修正のポイントは以下の通りです。
・登場人物の行動の自然さ:主人公の職業設定を具体的にし、深夜に同僚を呼ぶ流れをより自然な状況に変更しました。(ドキマナミさんのコメントに対応)
・文章の質の向上:読みにくい部分や不自然な助詞を修正し、情景が目に浮かぶような描写を加えました。(アブソリュート・ゼロさんのコメントに対応)
・物語の矛盾の解消:最後の同僚のセリフにおける致命的な矛盾点を解消し、より恐怖が増すような展開に変更しました。(呂さんのコメントに対応)
以下リライト文章です。
あれは1996年6月下旬、梅雨時らしい蒸し暑い日のことだった。
俺はリフォーム会社の営業で、田中さんという大家さんのところへ伺った。田中さんはメゾネットタイプの集合住宅を経営しており、先月、ある部屋で起きた忌まわしい事件の後処理がようやく終わったため、その報告と打ち合わせが目的だった。
その「事件」とは、住人だった二十代の女性の自殺だ。
話によれば、彼女は同棲していた男に騙されて多額の借金を背負わされ、その男が浮気相手と高飛びしたことに絶望し、自ら命を絶ったという。
俺がそんな内情に詳しいのは、田中さんが女性の遺体の第一発見者だったからだ。普段は快活な田中さんも、この時ばかりはすっかり動転してしまい、懇意にしていた俺に助けを求めてきた。警察への対応から部屋の原状回復の手配まで手伝ううちに、俺たちは単なる取引相手を超え、時々飲みに行くような仲になっていた。
聞けば、男が出て行ってからというもの、女性の部屋からは夜通し泣き声や物を叩き壊す音が聞こえ、他の住人から苦情が絶えなかったらしい。田中さんが注意しに行った際に彼女から相談を受け、それ以来、毎日のように話し相手になっていたそうだ。
そして運命の日。いつものように彼女の部屋を訪ねた田中さんは、ドアの隙間から漏れるガス臭に気づいた。慌てて管理用の鍵でドアを開け、元栓を閉めて救急車を呼んだものの、彼女はガスと共に睡眠薬を大量に服用しており、すでに息絶えていた。
その夜、打ち合わせを終えた俺に、田中さんが「晩飯をご馳走する」と言ってくれたので、18時過ぎに彼の自宅を訪ねた。田中さんはいつも通り明るく俺を迎え、先月の出来事が嘘だったかのような朗らかな様子だった。
仕事の話もそこそこに、田中さんが取ってくれた出前の寿司をつまみながら、テレビのナイター中継を観る。彼は「腹が減っててな」と笑いながら三人前を注文していたが、俺が一人前を食べ終えても、田中さんが食べたのは同じく一人前だけ。テーブルには、きれいなままの一人前がぽつんと残っていた。
その時は特に気に留めなかった。試合も盛り上がっていたし、酒も入っていたからだ。だが、ふと先月の事件の話題に触れると、あれほど憔悴していた田中さんが、どこか他人事のような口ぶりなのが妙に引っかかった。
さらに不可解だったのは、田中さんの振る舞いだ。テーブルには、なぜかお吸い物が三つ並んでいる。座布団も三枚用意されている。まるで、そこにもう一人誰かがいるかのようだった。その異様さに気づいた時、俺は胃のあたりが重くなるのを感じ、ごまかすようにトイレに立った。
用を足して居間に戻る途中、ふと玄関に漂う香りに、俺は足を止めた。それは、自殺した女性の部屋を片付けた時に嗅いだ、甘ったるい香水の匂いと同じだった。視線を落とすと、玄関には見慣れない女性もののハイヒールが揃えて置いてある。
(ああ、なんだ……新しい恋人ができたのか)
俺はそう結論づけた。だから寿司も三人前だったのか。それなら邪魔をしないように、そろそろお暇しよう。そう考えた俺に、田中さんは「もう遅いから泊まっていけ」と言う。時計は23時を過ぎ、とっくに終電はない。しかし、この奇妙な空間に長居はしたくなかった。
「すみません、会社に忘れ物をしてしまって。これから同僚に送ってもらうことになってるんです」
咄嗟に嘘をつき、会社の近くに住む同僚の山下に電話をかけ、車で迎えに来てくれるよう頼み込んだ。半ば強引な頼みだったが、事情を話すとすぐに来てくれるという。
電話を終え、帰り支度をしながら、俺は探るように田中さんに尋ねた。
「田中さん、新しい彼女さんですか? おいくつの方なんです?」
すると田中さんは、少年のようなはにかんだ笑顔でこう答えた。
「ああ、恥ずかしながら一回りも下の22歳だよ。お前も知ってるだろ。加奈子さんだよ」
その名前を聞いた瞬間、背筋が凍りついた。
加奈子――それは、先月この世を去った、あの女性の名前だった。
「か、加奈子さんって……田中さん、それじゃあ……」
俺が言いかけた時、どこからか冷たい視線を感じ、言葉が喉に詰まった。「何だい?」と上機嫌に問い返す田中さんに、俺は「いえ、何でもないです」と絞り出すのが精一杯だった。
玄関のドアを開け、「ごちそうさまでした。また来ます」と告げると、田中さんは「おう、また来いよ」と手を振った。その声とほとんど同時に、田中さんのすぐ背後から、女の声が聞こえた。
「マタイラシテネ……」
田中さんの声とは明らかに違う、鈴を転がすような、しかし感情のない透き通った声。振り返っても、田中さんの後ろには誰もいない。薄暗い居間のテーブルが見えるだけだ。
全身から嫌な汗が噴き出し、俺はぎこちなく頭を下げると、アパートの階段を転げるように駆け下りた。ちょうどやってきた山下の車に飛び乗った。
「悪い、山下! とにかく出してくれ!」
車に乗り込むと、俺は山下に事情を掻い摘んで話した。荒唐無稽な話に山下は半信半疑だったが、俺の尋常ではない様子に何かを感じ取ってくれたらしい。
「確かめたいことがあるんだ。少しだけ付き合ってくれ」
俺の頼みに、山下は黙って頷いた。俺たちは、あのメゾネットマンションへと車を走らせた。
深夜0時過ぎ、加奈子さんが住んでいた部屋の前に着く。表札は外されていたが、郵便受けにはチラシやダイレクトメールが突っ込まれていた。その中の一通を抜き取り、ライターの火で宛名を照らす。
そこにははっきりと――「木原 加奈子」と印字されていた。
俺はその場で田中さんに電話をかけた。コール音の後、彼はすぐに出た。「どうしたんだい?」と笑いながら話す声は、先ほどと何も変わらない。俺は震える声で、核心を突いた。
「田中さん……あんたが一緒に住んでるのって、もしかして……死んだ人間なんじゃないですか?」
その瞬間、電話の向こうで空気が変わった。そして、女性の低い声が響いた。
「カレヲハナサナイ……」
先ほどの透き通るような声とは似ても似つかない、地の底から響くような重い声。直後、電話は一方的に切れた。
俺と山下は顔を見合わせ、車に飛び乗った。大通りに出たところで、それまで黙っていた山下が、青い顔でぽつりと言った。
「なあ……さっきお前が電話してる時、電話の向こうから女の声が聞こえただろ? その後、電話が切れる直前、すぐ近くで低い男の声がしなかったか? はっきりと『離さない』って……。俺、てっきりあんたの後ろに誰かいるのかと思ったよ……」
それから四日後、田中さんは自宅で亡くなっているのが見つかった。
死因は衰弱死。警察は猛暑による熱中症と発表したが、彼の部屋には真新しいエアコンが設置されていた。
あのメゾネットは、今はもう経営者も変わり、名前も変わった。だが、建物は今も、そこに在り続けている。
(了)
原文
1996年6月下旬の蒸し暑い日だった。
その日、俺は田中さんという大家のところに営業に行った。彼はメゾネットタイプの集合住宅を賃貸経営していて、先月退去した住人の預かり費用の件で話があったからだ。
退去した住人は、実は二十代の女性で、その部屋で薬を飲んで自殺した人だった。話を聞くと、同棲していた男に騙されて借金を背負わされ、男が浮気相手と一緒に出て行ったあと、自ら命を絶ったらしい。
俺がそんな詳細を知っているのは、田中さんがその女性の死体の第一発見者だったからだ。この手の出来事に慣れていなかった田中さんは、俺を呼び出して諸手続きを手伝わせた。それがきっかけで、俺たちは愚痴を言い合えるような仲になった。
男が出て行った後、女性の部屋から夜通し泣き声や物を壊す音が聞こえ、他の住人から苦情が相次いだという。田中さんが注意に行った際、彼女から相談を受け、それ以来毎日のように話し相手になっていたそうだ。
そして、ある日いつものように彼女の部屋を訪ねた田中さんがガス臭に気付き、慌てて元栓を閉めて救急車を呼んだが、女性はガスと共に睡眠薬を大量に飲んでいて、既に息を引き取っていた。
その夜、田中さんが「晩飯をご馳走する」と言ってくれたので、18時過ぎに彼の家を訪ねた。田中さんはいつも通り明るく迎えてくれ、先月の出来事など忘れたような様子だった。
仕事の話を終えたあと、田中さんが頼んだ出前寿司を一緒に食べながら、テレビでナイター中継を見ていた。彼は三人前注文していたようだが、俺は一人前だけ食べた。田中さんも同じように一人前だけ食べ、結果的に一人前がきれいに残った。
その時は特に気にせず、試合の盛り上がりもあって酒を飲みながら雑談していたが、ふと先月の事件の話題に触れると、田中さんはどこか他人事のような態度だった。それが妙に気になった。
さらに不可解だったのは、田中さんがテーブルにお吸い物を三つ並べたり、座布団を三つ出したりしていたことだ。まるで、もう一人誰かがいるかのような振る舞いだった。その異様さに気付いた俺は、なんとなく不快な気分になり、トイレに立った。
用を足し居間に戻る途中、玄関に漂う香りに覚えがあることに気付いた。それは以前、あの女性の部屋をリフォームした際に嗅いだ香料の匂いと同じだった。そして玄関を見ると、なぜかハイヒールが置かれていた。
俺は田中さんが女性と同棲を始めたのだろうと結論づけ、二人の邪魔をしないように帰ろうとした。しかし、田中さんは「もう遅いから泊まっていけ」と言う。時計を見ると23時を過ぎていた。断る理由を考えた俺は、「帰ってから仕事がある」と嘘をつき、同僚に迎えに来てもらうことにした。
帰り際、同棲相手の女性について田中さんに探りを入れてみた。「その人、いくつなんだ?」と聞くと、田中さんははずんだ声でこう答えた。
「恥ずかしながら、一回り下の22歳だよ。お前も知ってるだろ、加奈子さんだよ」
その名前を聞いた瞬間、背中に冷たいものが走った。加奈子――それは先月亡くなった女性の名前だった。
「加奈子さんって、田中さん……」
言いかけたところで、なぜか冷たい視線を感じ、俺はそれ以上言葉を続けられなかった。「何だい?」と上機嫌で返す田中さんに、「いや、何でもない」とだけ言い残し、靴を履いて玄関を出た。
ドアの前で改めてお礼を言い、「楽しかった。また来るよ」と告げると、田中さんは「おうっ、また来いよ」と返事をした。その声に重なるように、田中さんの背後から女性の声が聞こえた。
「マタイラシテネ……」
その声は田中さんとは明らかに違う、透き通った小さな声だった。振り返ると、田中さんの後ろには誰もおらず、居間とテーブルが見えるだけだった。
その瞬間、全身に冷や汗が噴き出し、ぎこちなく別れの挨拶を交わしながらその場を去った。そして、同僚の車に乗り込んだ。
家に帰ろうとしていたが、どうしても確かめたいことがあり、同僚と共に自殺した女性の元住居へ向かった。
深夜0時を回り、玄関先に到着すると、表札は外されていたが、ポストにはダイレクトメールが差し込まれていた。その一つを取り出し、ライターの火で明かりを灯して宛名を確認した。
そこには――「木原加奈子」と書かれていた。
その場で田中さんに電話をかけると、彼はすぐに出た。「どうしたんだい?」と笑いながら答える田中さんに、俺は思い切って核心を問いただそうとした。
「田中さん、同棲してるのは……死んだ人間なんじゃないか?」
その瞬間、電話越しに女性の低い声が響いた。
「カレヲハナサナイ……」
その声は、先ほどの透き通った声とはまったく異なる、低く重い響きだった。そして、電話は突然切れた。
俺は同僚とともにその場を離れ、車に飛び乗った。事態を飲み込めない同僚に一部始終を話すと、彼はこう言った。
「さっき部屋の前にいたとき、加奈子さんが携帯をかけてる横で、低い男の声が聞こえた気がしたんですけど……気のせいですかね?」
それから4日後、田中さんは亡くなった。死因は衰弱死とされ、警察は熱中症だと説明したが、彼の部屋にはエアコンが設置されていた。
あのメゾネットマンションは、経営者が変わったが、今も存在している。
(了)
[出典:372 :山師さん:2001/09/22 22:46]