同棲を始めるために、その友人はアパートを探していた。
まだ二十代前半で、貯金も余裕があるわけではなかったが、二人で暮らすには十分な広さと立地の部屋が見つかった。築年数は古めだが、内装はきれいで、何より家賃が相場より明らかに安かった。
理由を聞いても、不動産屋は「たまたまですよ」と笑うだけだったという。
引っかかった点がまったくなかったわけではない。
部屋の中央にあるはずの蛍光灯が、ほんの少しだけずれて取り付けられていた。
測らなければ分からない程度だが、視界の端で常に違和感が残る位置だった。
それでも、友人は気にしなかった。自称霊感が強いと自負していたし、これまで多少のことでは動じない経験もしてきたらしい。
引っ越して一週間ほど経ったある日、先に帰宅した彼が部屋に入ると、灰皿が逆さまになっていた。
床に落ちているわけではない。
テーブルの中央で、きれいに裏返り、その上に吸い殻だけが置かれていた。
最初は、同棲相手の冗談だと思った。
そう問い詰めると、彼女は心底不思議そうな顔をして首を振った。
気味が悪くなり、二人で吸い殻を捨て、灰皿を洗って元に戻した。
それで、その日は何も起こらなかった。
だが同じことは何度も起きた。
仕事から帰るたび、どちらかが先に部屋に入ると、必ず何かが逆さになっている。
灰皿、小物入れ、コップ。
倒れた様子はない。最初からそこに置かれていたかのように、上下だけが正確に入れ替わっている。
外部から誰かが侵入している可能性も疑った。
彼は出かける前、ドアの前に小さな石を並べてみた。
帰宅すると石はそのままの位置にあり、ドアが開けられた形跡はなかった。
それでも部屋の中では、物だけが裏返っていた。
現象は徐々にエスカレートしていった。
ある日、ちゃぶ台ほどの小さなテーブルが逆さになっていた。
その上に置いてあった雑誌やリモコンは、逆さになった天板の上に、元の配置を保ったまま載っていた。
二人で見つめ合い、笑うしかなかったという。
極めつけは、タンスだった。
高さのある古いタンスが、倒れた様子もなく、上下だけを入れ替えた状態で部屋の隅に置かれていた。
中身は飛び散っていない。
引き出しは閉じたまま、上に載せていた鞄や箱だけが、逆さになった天板の上に並んでいた。
恐怖よりも、感覚の麻痺が先に来ていた。
どうやって、誰が、という疑問を考えること自体が馬鹿らしくなっていった。
同時期に、別の異変も起きていた。
真夜中、決まって猫の鳴き声が聞こえる。
一匹ではない。何匹もの猫が、窓の外で一斉に鳴き続けているような騒音だった。
翌日、隣の部屋の住人に聞いても、誰もそんな音は聞いていないと言う。
別の日には、夜中に激しい雨音がした。
屋根を叩きつけるような豪雨だった。
だが朝になって外を見ると、地面は乾いている。
隣人は一晩中起きていたが、雨など降っていなかったと断言した。
部屋の中では、服が突然落ちることもあった。
ロープに掛けたハンガーから、ボタンをすべて留めた服だけが、音を立てて床に落ちる。
ロープもハンガーも動いていない。
二人が同じ部屋にいて、何も触れていない状況で起きた。
大家にも相談した。
だが「そんな話は聞いたことがない」と、曖昧にかわされるだけだった。
決定的だったのは、引っ越しから三週間ほど経った夜だ。
彼女はベッドの上で雑誌を読み、彼はその横で布団に横になっていた。
突然、彼の体が動かなくなった。
金縛りだった。
足元に、強烈な痛みを感じた。
誰かが両足の上に立っているような重さ。
目を開けると、足元に霧のようなものが溜まっていた。
煙とも、影ともつかない曖昧な塊が、ゆっくりと集まり、人の形を作っていく。
恐怖より先に、反射的な怒りが湧いた。
彼は半身を起こし、声を張り上げたらしい。
その瞬間、彼女も振り返り、同じものを見て悲鳴を上げた。
次の瞬間、形は崩れ、空気に溶けるように消えた。
二人は、その夜のうちに部屋を出る決意をした。
荷物は最低限だけまとめ、後日、正式に退去した。
理由は聞かなかった。
聞く必要もないと感じていた。
最後に部屋を出たのは、クリスマス・イブだったという。
それ以来、友人は上下が入れ替わったような配置を見ると、無意識に視線を逸らす癖が抜けないらしい。
世界は簡単に、正しい向きを失う。
そう知ってしまったからだ。
[出典:死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?/30 :1:03/05/21 17:24]