ある夫婦が郊外に中古の家を買った。
駅までは近く、スーパーも多く、日当たりもいい。築年数の割に値段が異様に安かったが、理由らしい理由は説明されなかった。
引っ越し当日、友人たちに手伝ってもらい、そのまま新居で飲み会になった。終電もなくなり、全員その家に泊まることにした。
夜中、廊下を走るような足音で何人かが目を覚ました。
バタバタバタ……子供が裸足で駆け回るような音だったが、誰も起き上がらなかった。寝ぼけているのだと思い、目を閉じた。
しばらくすると、今度は子供同士がひそひそと話す声が聞こえた。言葉は聞き取れない。ただ複数いることだけが分かった。その声で完全に目が覚め、結局、朝まで熟睡できた者はいなかった。
朝になり、全員が同じ体験をしていたことを知った。
誰もが言葉にしなかったが、同じ考えに至っていた。この家には何かある。
廊下を調べていると、突き当たり付近に青いクレヨンが落ちていた。夫婦にも友人にも心当たりはない。
そこで、ある違和感に気づいた。
廊下の突き当たりの奥には、間取り的に見て、もう一部屋分の空間があるはずだった。
壁を叩くと、明らかに中が空洞の音がした。
壁紙を剥がすと、隠されるように小さな扉が現れた。
全員が息を止めたまま、その扉を開けた。
中は空っぽだった。家具も、物も、何もない。
ただ、四方の壁すべてに、青いクレヨンで文字がびっしりと書かれていた。
乱雑で、何度も上書きされていて、ところどころ擦れて消えかけている。
それでも内容は読めた。
「ここはだいじょうぶ」
「ここならだいじょうぶ」
「まだここはだいじょうぶ」
同じ文が、壁一面に何百回も繰り返されていた。
その日の午後、夫婦は近所の古い地図を調べた。
その家が建つ前、そこには児童養護施設があり、火事で全焼していたことを知った。
夜になっても、夫婦はその部屋の壁を塗り直さなかった。
今も廊下の奥には、何もないはずの空間が残っている。
そして時々、夜中に足音がする。
走り回る音ではない。壁をなぞるように、確かめるように歩く音だ。
まるで、まだ安全かどうかを確認しているように。
(了)