『ろいろい』という妖怪がいる。
現在は別の山名だが、古くは不出山と呼ばれていた霧の深い山に棲むものだ。
山中で「おーい」と呼ぶ声がする。
人がいるのかと思って声のする方へ向かうと、誰もいない。気づけば見知らぬ場所に迷い込み、足を踏み外して谷に落ちる。そういう怪異として語られている。
不出山で「おーい」という声を聞いても、決して返事をしてはならない。
あとに「助けてくれ」「誰かいるか」と続くなら人だが、ただ延々と「おーい」と繰り返すものは人ではないからだ。
姿形の噂はない。
見た者がいないのか、見た者は皆いなくなったのかは分からない。
『ろいろい』とは、この土地の方言で、うろうろするという意味だという。
──というわけで、見に行くことにした。
二月中旬。
早朝に起き、弁当と水、防寒具、非常用の装備をザックに詰める。標高は低いが霧が出やすく、迷いやすい山として知られている。念のため、帰らなかった場合のことを考え、同じ大学の八坂にだけ行き先を伝えた。
「もし三日帰らなかったら、捜索願を出してほしい」
『……必ず、帰ったら連絡してください』
そう言われた。
カブで三時間ほど走り、登山口に着いた頃には、すでに辺りは薄い霧に包まれていた。立札には現在の山名が書かれている。旧名の不出山という文字は、どこにもない。
山に入る。
落葉した雑木林は見通しが悪く、獣道がいくつも枝分かれしている。人の踏み跡と区別がつかない道も多い。迷いやすいという評判は伊達ではなかった。
それでも、呼び声は聞こえなかった。
分かれ道で一度だけ立ち止まった。
谷へ降りる道と、山頂へ続く道。古い立札には【不出山山頂 ↗】とだけ残っている。帰りのために場所を覚え、山頂へ向かった。
昼前に山頂へ着いた。
霧の向こうに山々がぼんやりと連なっている。弁当を食べ、少し休み、下山を始めた。
霧は濃くなっていた。
問題の分かれ道に戻ったとき、立ち止まって水を飲んでいると、背後で微かな音がした。
『……い』
振り返る。誰もいない。
『……ーい』
風とも鳥ともつかない。
『……おーい』
はっきりと、呼び声だった。
どこから聞こえてくるのか分からない。距離も方向も掴めない。
『おーい。……たば』
名前だった。
返事をしてはならない。
そう聞いてきた。
『……おーい』
次に来る言葉を、なぜか待ってしまった。
『もしもーし』
ザックの中で携帯が鳴っていた。
取り出すと、隣の部屋のヨシからだった。
『何してんだよ。出ねえから心配したぞ』
さっきまで聞こえていた声と、妙に調子が似ていた。
通話を切ると、霧の中は静まり返っていた。
それ以降、何も起きなかった。
迷うこともなく、無事に下山した。
帰宅したのは夕方だった。
約束通り八坂に電話をかける。
『無事でよかったです』
その最中、隣のヨシが酒を持って部屋に入ってきた。
「おーい、帰ってきたぞ」
『あ、ヨシさんですか』
「そうそう」
ハンズフリーのまま、三人で少し話した。
「お前、また妙な山行ってたんだろ」
「……まあな」
ヨシが笑いながら言う。
「なあ、さっきから黙ってないで何か言えよ」
「……」
「おい」
「……」
「おーい」
その声を聞いた瞬間、八坂が小さく笑った。
『……今、誰が呼びました?』
誰も返事をしなかった。
[出典:怖い話&不思議な話の投稿掲示板/投稿者「かれき ◆UtLfeSKo」 2019/03/14]