山道を走る車のエンジン音だけが、やけに大きく聞こえていた。
大学二年の夏だった。
バイト先の仲間で、どこかに行こうという話になった。目的地は、中国地方の山奥にある吊り橋。観光用に残されているだけで、その先は行き止まりだと聞いていた。昼に出て、夕方には戻るつもりだった。
車は二台に分かれた。
前の車は店長の運転で、後部座席に付き合って三年になるというカップルが乗っていた。互いの親にも紹介済みで、結婚の話も出ているらしかった。
後ろの車には、私を含めて四人。
寄り道が多く、山に入ったころには空が暗くなり始めていた。吊り橋の手前に開けた小さな広場が見えたころ、小雨が降り出し、霧が低く流れてきた。
前の車が、突然止まった。
十メートルほど距離を空けて、私たちも止まる。
ブレーキランプが赤く灯ったまま、消えない。
クラクションを鳴らす者はいなかった。何かを見たような気がして、誰も動けなかった。
私はドアに手をかけた。
その瞬間、前の車の後部座席のドアが同時に開いた。
カップルの二人が、何かに急かされるように飛び出してきた。
顔は見えなかった。ただ、妙に揃った動きだったのを覚えている。
「おい、どうした」
声をかける前に、二人は手をつないで走り出した。
広場の端へ。
ガードレールを越えて。
躊躇は一瞬もなかった。
私たちは叫びながら追いかけたが、間に合わなかった。
霧の向こうに、音もなく二人が消えた。
谷を覗き込んでも、何も見えない。
霧が深く、底があるのかどうかも分からなかった。
誰かが泣き出し、誰かが名前を呼び続けていた。
私は、前の車を思い出した。
運転席に座る店長は、ハンドルを両手で握りしめ、動かなかった。
指先が白くなり、唇がかすかに動いていた。
「行っちゃだめだ」
何度も、同じ言葉を繰り返していた。
警察を呼び、救急車が来た。
店長はそのまま運ばれた。
私たちは、事情聴取を受けた。
二人の遺体は、翌日、谷の下流で見つかった。
警察は自殺だと判断した。
私たちの話は、細かく書き留められたが、結論は変わらなかった。
数日後、病院で店長と会った。
痩せて、目の焦点が合っていなかった。
「あのとき、何があったんですか」
しばらく沈黙したあと、店長はぽつぽつと話し始めた。
霧の中から、女の子が出てきたという。
古い着物を着て、おかっぱ頭で、笑っていた。
急ブレーキを踏んだ瞬間、車の周りに、同じような格好の子供が何人も立っていることに気づいた。
数は、はっきりしない。
多かったような気もするし、最初から輪になっていたような気もする。
怖くなって、口の中でお経を唱えた。
すると、子供たちが手をつなぎ、歌い始めた。
歌の途中で、頭の中に声が響いた。
「おいで」
それだけだったかもしれない。
もっと何か言われた気もする。
思い出そうとすると、歌声にかき消される。
店長は、私たちが乗っている後ろの車の存在を、そのとき忘れていたという。
自分と子供たちと、霧と歌だけの世界だった。
「後ろの二人が降りたのも、気づかなかった」
気づいたときには、もういなかった。
「俺が止めなかったからだ」
そう言って、店長は目を伏せた。
警察には、この話をしなかったそうだ。
信じてもらえないと思ったからではない。
自分でも、どこまでが本当か分からなくなっていたからだという。
病室を出たあと、私たちは四人で話した。
それぞれの記憶が、微妙に違っていた。
女の子を見たと言う者もいれば、見ていないと言う者もいた。
歌が聞こえたという者と、ただ静かだったと言う者。
共通しているのは、二人が笑っていたように見えた、という点だけだった。
あの場所の名前は、誰も口にしない。
地図で探そうとしたが、見つからなかった。
店長も、その後、バイト先を辞めて姿を消した。
時々、考える。
あのとき、車から降りていれば何か変わったのか。
声をかけるのが一瞬早ければ、結果は違ったのか。
分からない。
ただ、霧の中で立ち止まった私たちと、走り出した二人の違いが、何だったのかだけが、今も残っている。
そして、あの歌は、今でも最後まで思い出せない。
[出典:45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/08/03(木) 02:15]