今はもう辞めてしまったが、少し前まで、とある公共施設の管理人兼受付の仕事をしていた。
入場無料で、冷暖房完備、特に利用制限も厳しくない施設だったから、昼夜を問わずいろいろな人間が出入りしていた。近所の中高生、時間を潰しに来る老人、居場所のないホームレス、正直なところ客層はかなり雑多だった。
その日も夜勤だった。
夜と言っても完全な深夜ではなく、閉館は日付が変わる少し前。利用者が減り、建物全体がゆっくり静まっていく時間帯だ。
異変は、二十一時を少し過ぎた頃だった。
自動ドアが開き、一人の女が入ってきた。
第一印象で強烈に記憶に残っているのは、顔だった。
正確に言えば、顔が見えなかったことだ。
女は両手で、自分の顔全体を覆っていた。
目元だけ、口元だけを隠すのではない。額から顎まで、指を揃えて、まるで「顔そのものに触れさせない」かのように、両手でぴったりと塞いでいた。
「いらっしゃいませ」
反射的に声をかけたが、返事はない。
無視された、というより、聞こえていないような感じだった。
ただし、様子がおかしいのは顔だけではなかった。
足取りは異様にしっかりしていた。ふらつきも、躊躇もない。
一直線にロビー奥のソファへ向かい、背筋を伸ばして腰を下ろした。
その姿勢が、妙に整いすぎていた。
両足をきっちり揃え、背もたれに深くもたれかかるわけでもなく、前屈みにもならず、まるで見本写真のような「正しい着席姿勢」だった。
顔を両手で覆ったまま、微動だにしない。
正直、その時点では「変な利用者が来たな」程度の認識だった。
この仕事をしていると、少し変わった人間を見ること自体は珍しくない。
だから、視線を切り、事務作業に戻った。
問題は、その後だ。
書類整理、巡回、軽い雑務を済ませ、時計を見ると閉館一時間前になっていた。
そろそろロビーの清掃を始めようと思い、モップを持って出た。
女は、まだそこにいた。
姿勢も、入館時とまったく同じだった。
顔を覆う手も、微塵もずれていない。
ここで、はっきりと不気味さを感じた。
もし、うつむいて泣いているような姿勢だったら、何か事情があるのかと思えただろう。
だが、そうではない。
顔を隠しながら、背筋だけは不自然なほど真っ直ぐ。
それが、長時間維持されている。
「入ってから、ずっとこの姿勢だったのか」
そう考えた瞬間、背中に冷たいものが走った。
女を視界に入れないようにし、早く帰ってくれることだけを祈りながら、最低限の清掃だけを済ませた。
閉館時間が近づき、館内放送を流す。
それでも、女は動かない。
仕方なく、直接声をかけることにした。
その時、ようやく気づいた。
外は、かなり強い雨が降っていた。
施設では、忘れ物や急な雨のために、ビニール傘を数本貸し出している。
女は、鞄も荷物も持っていなかった。傘もない。
できれば関わりたくなかったが、業務上そうもいかない。
ロビーに近づき、一定の距離を保ったまま言った。
「閉館時間ですので、そろそろ退館をお願いします」
返事はない。
傘立てから一本取り、女の足元にそっと置いた。
その瞬間、女が動いた。
だが、立ち上がらない。
顔を覆う手も、離さない。
女は、ゆっくりと上半身だけを傘に近づけた。
そして、片手の小指だけを、異様に細かく動かし始めた。
まるで、昆虫の触角のように。
小指の先で、傘の柄を探り、引っかけ、少しずつ手繰り寄せる。
その動作に集中するあまり、指の隙間がわずかに開いた。
その一瞬、見えてしまった。
女の顔は、布のようなもので、ぐるぐるに巻かれていた。
タオルなのか、包帯なのかは分からない。
だが、肌が見える隙間は一切なく、目の位置すら判別できなかった。
思考が止まった。
傘をどう差すのか、顔を覆ったままどうやって外を歩くのか、そんな疑問すら浮かばない。
ただ、その場に立ち尽くしていた。
気づくと、女はいなくなっていた。
いつ、どうやって立ち上がり、どうやってドアを通ったのか。
まったく記憶にない。
そのまま施錠を済ませ、逃げるように帰宅した。
翌日、出勤してすぐ、異変に気づいた。
施設の正面玄関の前に、見覚えのあるビニール傘が落ちていた。
貸し出し用のものだ。
ただし、普通ではなかった。
傘は、バキバキに折られていた。
骨組みが、意図的に力を加えられたように、何本も逆方向に曲げられている。
風で壊れた、というレベルではない。
雨は、夜のうちに止んでいた。
周囲に足跡もない。
その傘が、いつ、誰によって、どうやってここに置かれたのか。
今でも分からない。
ただ一つ確かなのは、
あの女が、顔から手を離さなかった理由を、俺は一生知りたくないということだ。
[出典:713 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2017/09/18(月) 10:31:34.61 ID:ToMgjPtw0.net]