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中編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

縫い目の内側 ncrw+149-0109

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今でも、あの匂いを思い出すと胸の奥がざわつく。

消毒液と古い布団の湿気が混じった、大学病院の空気だ。覚えているはずがない、と何度も言われた。それでも、天井に広がる黒ずんだ輪郭や、廊下の奥に溜まる湿った闇だけは、どうしても薄れない。

薄い灯りに沈む病室で、私はいつも肩の位置が定まらなかった。シーツのひんやりした皺に指先が沈む感触ばかりを確かめていた。胸の内側は重く、呼吸のたびに軋む。それでも泣くことだけはできていた気がする。声にならない涙が首を伝い、包帯の端に吸い込まれていく冷たさを覚えている。

隣のベッドには、少し年上の子がいた。名前は知らない。
母の話では、私は彼女を「おねえちゃん」と呼んでいたらしい。だが記憶に残っているのは声ではなく、彼女が動くたび布団がかすかに揺れる音だけだ。その音が、なぜか落ち着く響きに思えていた。

廊下へ出ると、壁のタイルはところどころ浮き、目地の隙間から湿り気が上がっていた。地下の浴室へ連れて行かれたとき、金属製の手すりに触れた瞬間の冷たさが、腕の皮膚を逆立てた。暗く、遠い場所だった。あれが夢だったのかどうか、今でも自分では判別できない。

小児病棟なのに、談話室の端にはいつもニコニコした老人がいた。私の低い視界でも分かるほど背が曲がり、ゆっくり手を振っていた。後になって母に話すと、そんな人はいなかったと言われた。それでも、椅子の脚が床を擦る音と、笑う口の形だけは消えなかった。

ある日、隣のベッドが急に空になった。白い枕だけが残り、向こう側のカーテンが半拍遅れて揺れていた。その揺れを見ているうちに、看護師の靴音が近づき、私の体は固定され、手術の準備だと告げられたらしい。

麻酔の匂いが肺に触れたころ、私は天井の染みだけを追っていた。不規則な灰色の輪郭。呼吸するたび視界が遠のき、体は深く沈んでいく。夜になると、機械の点滅と誰かの寝返りが混じり、空気はさらに薄く曖昧になった。

声を出そうとしても喉は動かず、涙だけが布に吸われていく。時間の感覚は壊れ、灯りの位置さえ定まらない。そのとき、視界の端で白い影が床をすべるように近づいた。

頭の横に影が差し、細い指が額に触れた。触れられた場所だけが、さっきまでの冷えを忘れたように温かくなった。呼吸の浅さも痛みも、その動きに合わせて遠のく。私は確かに思った。おねえちゃんが来た、と。

まぶたが落ちる直前、布団の端が誰かの膝で押される、あの独特の沈みを感じていた。

それが、最初の記憶の終わりだ。

目が覚めると、窓の外は灰色で、夜がそのまま薄まったような光が病室を満たしていた。胸の奥に鈍い重さがあり、深く息を吸うと縫い目の裏側がひりついた。包帯と乾ききらないガーゼの匂いが喉に絡み、意識だけが妙に冴えていた。

ベッドの柵に触れようとすると、手首に残った縛りの痕が痛んだ。看護師は何度も同じ言葉を繰り返した。その声が遠く、甘く、どこか均一に聞こえた。

カーテンの隙間から隣のベッドを見た。枕は整えられ、布団に生活の痕がない。誰もいなかったかのような空白。それでも私は、そこに体温を感じていた。昨夜、額に触れた温度の名残が、皮膚の奥でじわりと広がる。

点滴の滴る音が部屋に満ちる中、私は上体を起こした。視界の隅、入口の方に誰かの輪郭が揺れた。近くにいる気配だけがあり、光の加減で形がほどける。次の瞬間、通り過ぎた看護師の影と重なり、空気だけが残った。

昼過ぎ、母が来た。私の額に手を当て、何か言いかけて言葉を飲み込んだ。視線は自然と隣のベッドへ向かっていたが、母は何も言わなかった。ただ、袋の持ち手が小さく鳴った。

それから数日後、歩行のリハビリが始まった。廊下は古いワックスの匂いに満ち、照明は昼とも夜ともつかない色をしていた。床に落ちる自分の影が揺れる中、談話室の奥に、あの老人の姿を見た気がした。古いソファに腰掛け、こちらを見ている。

足を止めた瞬間、看護師が追いついてきた。視線の先には、誰もいないソファだけがあった。布地が、誰かが座っていたかのようにわずかにへこんでいるだけだった。

その夜、消灯後の病室で、廊下から小さな足音が聞こえた。子どもがスリッパを引きずる音。天井の染みが濃くなり、私は枕を握りしめた。足音は、隣のベッドで止まった。

沈黙のあと、シーツの擦れる音。ごく軽い沈み。私は目を閉じたまま息を吸った。その空気には、あの夜と同じ匂いが混じっていた。

額に、そっと触れるものがあった。細く、温かい指。安心と同時に、胸の奥で別の感覚が動いた。自分の鼓動が、誰のものなのか分からなくなる感覚。

「……」

言葉にならない気配だけが、耳の内側に触れた。
撫でる動きはゆっくりで、私の呼吸に合わせるようだった。呼吸が落ち着くにつれ、体の重さが曖昧になっていく。どこまでが自分で、どこからが他なのか、境目が薄れていった。

やがて、シーツのくぼみが軽くなった。ベッドの柵がかすかに鳴り、床へ降りる気配が伝わる。足音は廊下へ向かい、一度だけ止まり、それきり消えた。

翌朝、隣のベッドは変わらず空だった。だが、シーツには小さな皺が残っていた。誰かが、ほんの少し腰を下ろしたような形。

退院の日、廊下の奥で、背中を押される感覚があった。振り向けば何もない。それでも歩みは自然に前へ進んだ。

自動扉の前で、私は一度だけ立ち止まった。白い廊下の奥に、薄い影が立っている気がした。だが光に溶け、すぐに見えなくなった。

胸骨の裏、縫い合わせのすぐそばに、今も温度が残っている。
それが守るためのものだったのか、別の何かだったのか。
私はまだ、はっきり区別できないままでいる。

――あの夜、ベッドの隣に座っていたのが、誰だったのかを。

[出典:916 :本当にあった怖い名無し:2012/09/12(水) 08:36:41.35 ID:MG8gk2LP0]

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