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中編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

となりの子の手 n+

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今でもあの匂いを思い出すと、胸の奥がざわつく。

消毒液と古い布団の湿気が混じった、あの大学病院の空気。
覚えているはずがない、と何度も言われたのに、天井の黒ずんだ輪郭や、廊下の奥の湿った闇だけは、どうしても薄れない。

薄い灯りが落ちる病室で、私はいつも肩の位置が定まらず、シーツのひんやりした皺に指先が沈む感触ばかり気にしていた。胸の内側が重く、呼吸のたびに軋む。それでも泣くことだけはできていた気がする。声にならない涙が首を伝うと、包帯の端が吸い込むように冷たかった。

隣のベッドには、少し年上の子がいた。名前は知らない。
母が言うには、私は彼女を「おねえちゃん」と呼んでいたらしい。
ただ、私の記憶の中では、声よりも先に、彼女が動くたび布団がかすかに揺れる音だけが残っている。
その音が、なぜか落ち着く響きに思えていた。

廊下へ出ると、壁のタイルはところどころ浮いていて、目地の隙間から湿り気が上がっていた。地下にある浴室へ連れていかれたとき、金属製の手すりに触れた瞬間の冷たさが、腕の皮膚を逆立てた。暗く、遠い場所だった。あれは夢だったのかどうか、自分でも判別できない。

小児病棟なのに、談話室の端にはいつもニコニコした老人がいた。
私のちいさな視界の高さでもはっきり見えるほど背の曲がった人で、ゆっくり手を振っていた。
ところが後年、母に言うと、「そんな人はいなかった」ときっぱり言われた。
それでも、椅子の脚が床を擦る音と、その老人が笑う口の形だけは、なぜか今でも浮かぶ。

ある日、隣のベッドが急に空になった。気づいたときには白い枕だけがぽつんと残され、向こう側のカーテンが半拍遅れて揺れていた。
その揺れをぼんやり眺めているうちに、看護師の靴の音が近づき、私の体は固定され、手術の準備だと言われたらしい。

麻酔の気配が肺に触れたころ、私は天井のシミだけを追っていた。
色の薄い水滴が乾いた跡のような、不規則な灰色の地図。
呼吸するたびに視界がかすみ、縛られた体は重く沈んでいく。
夜になると、機械の小さな点滅や、誰かの寝返りが混じり、部屋の空気はさらに淡く曖昧になった。

声を出そうとしても喉は動かず、ただ涙が耳の横の布に吸われていくばかり。
時間の感覚はばらばらで、灯りの位置まで滲んで見える。
そのときだった。
ふいに視界の端で、白い影が床の上をすべるように近づいた。

頭の横に影が差し、細い指が額に触れた。
撫でられた場所が、さっきまでの冷えが嘘のようにじんわり温かくなった。
呼吸の浅さも痛みも、その動きに合わせてすっと遠のいた。
私は確かに思ったのだ――あぁ、おねえちゃんが来てくれた、と。

まぶたが落ちていく直前、布団の端が誰かの膝で押される微かな沈み方まで感じていた。

それが、私の最初の記憶の終わり。

目が覚めたとき、窓の外は淡い灰色で、夜がそのまま薄まったような光が病室を満たしていた。胸のあたりに鈍い重さがあって、深呼吸すると胸骨の裏側がひりつく。包帯の匂いと、乾ききらないガーゼの湿気が喉にかかり、意識だけが妙に冴えていた。

ベッドの柵に触れようと指を動かすと、手首に残った縛りの痕がひりっとした。看護師が来ると、何度も「がんばったね」と言われた。その声の甘さが耳に残るほど、私はまだ眠さと覚醒の境目にいた。

ふと、カーテンの隙間から隣のベッドの影を見た。
枕は整えられたまま、布団にシワがない。
誰かがここにいれば、もっと生活の痕跡が残っているはずなのに、まるで初めから誰もいなかったような空白だった。
それでも私は、そこに体温を確かに感じ取っていた。昨夜触れた指の温もりの余韻が、皮膚の奥からじわりと浮き上がる。

点滴の滴る音がやけに大きく響く部屋で、私はゆっくり上体を起こした。胸の中央が突っ張り、声にならない呼気がもれる。
視界の隅、入口の方に立つ誰かの姿が揺れていた。
近くにいる気配だけがあり、光の当たり方で輪郭がとぎれたり戻ったりする。
次の瞬間、通り過ぎた看護師の影と重なって消え、空気だけが残った。

昼を過ぎると、母が来た。
白い紙袋を抱えて、少し疲れた顔をしていた。
私の額に手を当てると、微妙な汗の感触に眉を寄せ、「昨日、つらかったでしょう」と言った。
私はどう答えたのか、自分でもはっきりしない。ただ、視線は隣のベッドばかり追っていた。

母は私の目線に気づいたように、ぽつりと口を開いた。
「……あの子、ね。あなたが手術に入る前に、もう……」
言葉がそこで途切れ、袋の持ち手がくしゃりと音を立てた。
私はその続きを聞きたくて、けれど、唇が開かなかった。

声を出そうと喉を震わせると、昨夜の温度だけがはっきり蘇った。
額を撫でたあの指先。
涙が頬を伝う前に、すっと触れてきたあの手。

隣の子は、確かにそこにいた。
少なくとも、私の中では確実に。

それから何日か経ち、歩行のリハビリが始まった。
廊下に出ると、古いワックスの匂いと、昼と夜の境目のような照明が目にしみた。
床に落ちる自分の影が頼りなく揺れる中、ふと視線を感じて振り返ると、談話室の奥にあの“ニコニコしたおじいさん”が見えた――ように思った。

壁際の古いソファに腰掛け、こちらに手を振っている。
どこか懐かしい、けれど思い出せない笑い方。
私は立ち止まり、片足に重心をかけたまま固まった。
そのとき、看護師が追いついてきて、「どうしたの」と私の視線を追った。

だが、そこには誰もいなかった。
古いソファの布地がへこんだ形だけ残し、影はどこにも落ちていない。
看護師は小首をかしげ、「疲れたかな」と言って私を促した。

歩き出したあとも、背中のほうで誰かが座り直す気配がついてきた。
ソファのばねが沈む、あのゆっくりとしたきしみ。
私は振り向かなかった。振り向けば、何もいないことがわかってしまう。
それが、なぜか惜しいように思えた。

その夜、眠りにつく直前、廊下のどこからか小さな足音が聞こえた。
子どもがスリッパを引きずるような、よく知った音。
天井のシミがじわりと暗く濃くなり、私は枕を握りしめた。
足音は隣のベッドで止まった。

沈黙のあと、シーツの擦れる音がした。
誰かが腰かける、ごく軽い沈み。
私は目を閉じたまま、小さく息を吸った。
その空気には、懐かしい匂いがあった――手術前夜、額に触れたあの温もりと、同じ匂い。

足音が止まったあとの静けさは、息を吸うたび耳の内側に張りついた。
その沈黙の向こうで、布団の端がわずかに引かれる感触があった。
私はゆっくり目を開けた。瞼の重さは、夜の湿気といっしょに下へ引かれていくようだった。

隣のベッドは、やはり空だった。
シーツの白さだけが、周囲の暗さを押し返している。
でも、その上に、重さの印のように“くぼみ”があった。
まるで細い誰かが、そこに腰を下ろしているように。

私は小さく息をのみ、ゆっくり体を傾けた。
胸の奥の縫い合わせた場所がずきりと主張したが、痛みに紛れて、別の温度が近づいてくるのを感じた。
シーツの擦れはさっきよりはっきりしていて、足元から冷たい空気がふわりと持ち上がり、額のあたりで止まった。

「ねえ――」

そんな声を聞いた気がした。
実際に音として届いたのかどうかは、今でも分からない。
ただ、耳の奥に、気配だけがそっと触れた。
私は反射的に枕をつかんだ。手のひらに湿り気が残る。

次の瞬間、額にそっと“何か”が触れた。
あの晩と同じ、細くて温かい指。
泣きそうなほど安心する温度なのに、胸の奥では、言いようのない緊張が背骨を這い上がっていた。

「大丈夫。寝てていいよ」

その言葉は、唇からではなく、息の流れから直接伝わってくるようだった。
私は目を閉じた。暗闇の裏で、細い影がすぐそばに座っている姿が浮かぶ。
ゆっくりと撫でられ、心臓の鼓動が自分のものか他人のものか分からなくなった。

呼吸が落ち着いたころ、シーツのくぼみがふっと軽くなった。
そのとき、ベッドの柵がかすかに揺れる音がして、足元から床へ、影がしずかに降りる気配が伝わった。
そして、廊下の方へ歩いていく足音が一度だけ響いた後、完全に消えた。

翌朝、母が来て、私の手を握った。
その指の温度が、夜に触れたものよりずっと現実的で、少し驚いた。
母はカーテン越しの光を見ながら、ぽつりと言った。

「……あなたが手術に入った夜ね。
隣の子、もう苦しまずに済むように、って……ずっとあなたのこと気にしてたの。
可愛がってたから、伝えたかったんじゃないかな。安心していいよって」

私は頷いた。
けれど、喉にひっかかるものがあった。

退院の前日、廊下の奥、あの談話室の前を通った。
古いソファには誰も座っていない。
なのに、一度だけ、布の沈む音がして、座り直す気配が私の背に触れた。
振り返ると、埃っぽい空気の層がゆらぎ、空っぽの部屋だけがそこにあった。

私は歩きながら、ふと気づいた。
背中を押すように感じていたのは、幼い私の“記憶”の手つきではなく、あの夜の“おねえちゃん”の撫で方と同じだった。
心臓の縫い目の疼きが、妙に穏やかに感じられた。

そして出口の自動扉の前で、私は一度だけ振り返った。
白い廊下の奥に、薄い影が立っている気がした。
だが、光の差し込みで輪郭がほどけ、すぐに見えなくなった。

――それでも、あの温度は今も残っている。
胸骨の裏側、縫い合わせのすぐそばで。

まるで、あの子の“手”が、まだそこに添えられているみたいに。

[出典:916 :本当にあった怖い名無し:2012/09/12(水) 08:36:41.35 ID:MG8gk2LP0]

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