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帳簿の合わない部屋 rw+2,881-0220

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帰ったはずの男の声が、まだ部屋に残っている気がする。

「それは見えているんじゃない。帳簿が合っていないだけです」

あの一言を最後に、彼は二度と来なくなった。

それまでは、天井の角にいた。

押し入れの上、壁と天井の境目。そこを、黒い塊がズル……と移動していた。丸く、艶のない髪の束。日本人形のように整ったおかっぱの形。裏側が見えるたび、頭皮のない空洞が覗いた。

最初に見たのは、保険代理店向けのシステムが炎上している最中だった。仕様変更とデグレードが絡み合い、誰も全体像を把握していない。ログは増え続けるのに、原因は増殖するだけ。担当が一人、退職したばかりだった。

久美。

口数が少なく、作業の抜けを絶対に出さない後輩だった。俺のスケジュールは、俺よりも彼女の方が把握していた。出張帰りの夜中でも、駅でデータを手渡してくれた。

その久美が、ある日を境にいなくなった。退職の挨拶もなければ、引き継ぎの痕跡もない。社内チャットを遡っても、彼女の発言は最初から存在しなかったかのように消えていた。人事は「記録上は在籍していません」とだけ言った。

それでも、俺の作業フォルダには、彼女の命名規則で並んだバックアップが残っていた。俺の机の上だけが、彼女の手順で整っていた。

ヅラは、何も荒らさなかった。

ある晩、キーボードの上に音もなく降りてきた。黒髪がキーを覆い、カーソルが勝手に動いた。消えないはずのバグが、差分一行で通った。コメントには、見覚えのある癖があった。「念のため」。久美がよく使っていた言い回しだ。

「久美、もうええって」

そう呟くと、黒い塊はまた天井の角へ戻っていった。

訪問してきていたあの男は、聖書の写本の違いを楽しそうに語る人だった。原文と翻訳の微妙な差を指摘しながら、「一文字の違いで意味は反転する」と笑った。

あの日、三時間ほど話し込んだあと、ふと天井を見上げた。俺もつられて視線を上げる。

黒い塊が、ゆっくりと角から這い出してくるところだった。

「久美、出てくんなって」

条件反射で言った。

男は俺の視線の先を見つめたまま、しばらく黙っていた。顔色が変わったのがわかった。

「今、何と呼びましたか」

「え……見えとるん?」

問いに問いで返すと、彼は首を振った。

「見える見えないの話ではありません」

そう言って、彼は栞を挟み直した。

「担当が消えても、処理は走る。帳簿が合うまで」

その瞬間、ヅラは動きを止めた。天井の角から、糸で引かれるようにすっと引き上げられ、薄くなり、形を失い、消えた。

それきり、出なくなった。

バグも、不思議と収束した。炎上は終わり、プロジェクトは立て直された。俺は久しぶりに、静かな部屋で眠った。

だが、何かがずれている。

翌週から、俺は自然とスケジュールを全員分把握するようになっていた。誰に言われたわけでもないのに、作業の抜けが見える。夜中、駅に向かって歩いている自分に気づいたことがある。ポケットには、USBメモリが入っていた。

中身を確認すると、俺が知らない差分が保存されている。コメントにはこう書いてあった。

「念のため」

最近、鏡を見ると、髪が少し伸びている気がする。整えた覚えはないのに、前髪のラインが揃っている。

会社の共有カレンダーに、見覚えのない予定が入っていた。

《駅 0:12 受け取り》

担当者欄には、俺の名前。

久美のアカウントは、今も存在しない。

だが、夜中に駅のホームに立つと、改札の向こうからこちらを見ている誰かの気配がする。俺は無意識に手を差し出している。何かを受け取る側ではなく、渡す側の形で。

帳簿は、まだ合っていないらしい。

[出典:723 :本当にあった怖い名無し:2020/07/10(金) 04:36:47.62 ID:58CFApWZ0.net]

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