これは、鎌倉に住む知人が幼い頃に体験したという話だ。
当時の鎌倉はまだ開発が進んでおらず、家の裏手には鬱蒼とした山が広がっていた。子供にとっては格好の遊び場で、彼も友達と連れ立っては山に入り、ドングリを拾って遊んでいたという。
その日も同じように山へ入り、夢中で拾い歩いているうちに友達とはぐれた。来た道が分からず、気づけば周囲は薄暗くなり、木々の隙間から見える空も夜の色に変わっていた。月明かりだけが頼りで、足元は急な斜面だらけだった。
怖くなり、その場にうずくまって泣いた。ビニール袋いっぱいのドングリを抱えたまま、声を上げて泣いた。
その時、目の前に何かが立った。
暗闇の中に、異様に大きな脚が見えた。上を見上げても顔は分からない。ただ、やけに太く、ごつごつした脚だった。人なのかどうかも判断できなかった。
迷子になったら名前を言えと親に言われていたことを思い出し、震える声で自分の名前を名乗り、迷子になったと伝えた。だが返事はない。何かは、ただそこに立っていた。
帰りたい、ドングリをあげるから一緒に来てほしい。そう言うと、低く「む」とも「ん」ともつかない声がした。次の瞬間、ビニール袋がひょいと取り上げられ、続いて体を軽々と掴まれた。尻を掴まれた感触だけが妙に生々しく残っているという。
視界が一気に持ち上がり、父親の肩車など比べ物にならない高さになった。ふわりと浮き、いったん下がったかと思うと、再び強く持ち上げられる。
見下ろすと、鎌倉の町明かりが遠くまで広がっていた。彼は駅の方角を指さし、こっちだと言った。
それは再び唸り声をあげ、木々の上を跳ねるように移動し始めた。風が耳を打ち、恐怖を感じる間もなく、気づけば山の入口に着いていた。街灯の光の下で地面に降ろされ、頭を下げて礼を言おうとした瞬間、そこにはもう何もいなかった。
家では大騒ぎになり、警察も来た。それ以降、山で遊ぶことは固く禁じられた。
それでも彼は、しばらくの間こっそり山に通い、木の根元にお菓子や飴を置いた。誰に供えているのかは分からなかった。ただ、あの時の何かに向けたものだった。
ある日、供えたはずの飴がそのまま残っているのに気づいた。封も切られていない。だが、その横の土には、子供のものではない深い足跡が一つだけ残っていた。行き先は分からず、途中で不自然に消えていた。
それ以来、彼は二度と一人で山に入っていない。
助けられたのかどうかも、今でははっきりしないままだ。
(了)