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短編 r+ ほんとにあった怖い話

十日で止んだ音 rw+5,293-0512

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実家の近くに、古い精神科の病院がある。

幼稚園の頃、あそこには絶対に近づくなと親に言われていた。

高い塀、鬱蒼とした木々、いつも閉ざされた門。昼間でも薄暗く、建物の窓には鉄格子がはまっていると聞かされていたから、子供の俺には、そこが本当に人のいる場所だとは思えなかった。

二〇〇〇年を過ぎた頃から、病院は少しずつ改修されていった。

外壁は塗り直され、窓も新しくなり、以前のような近寄りがたさは薄れていった。認知症の高齢者も受け入れているらしく、いつの間にか、ただの古い病院に見えるようになっていた。

それでも夜になると、あの辺りだけは暗かった。

あれは二〇一二年の三月、深夜二時を少し過ぎた頃だった。

仕事帰りに小腹が空いて、近所のコンビニまで歩いた。街灯はところどころ切れていて、風に揺れる木の影が、歩道の上をゆっくり這っていた。

病院の塀沿いを通りかかったとき、前の方から音が聞こえた。

キコッ……キコッ……。

最初は自転車かと思った。

だが近づいてきたのは、車椅子だった。

乗っていたのは老婆だった。薄い寝間着のようなものを着て、膝に毛布をかけている。顔は水を吸った紙みたいに白く、街灯の下を通っても、表情だけが暗いままだった。

誰も押していない。

車椅子は、病院の方からこちらへ向かって、ゆっくり進んでいた。

病院の敷地からは、もう五十メートル以上離れている。あんな夜中に、あんな場所まで一人で来られるはずがない。

声をかけようとしたが、できなかった。

老婆は俺の方を見なかった。ただ車椅子だけが、一定の間隔で軋んでいた。

キコッ……キコッ……。

そのまま横を過ぎていく。

後ろ姿を見送っていると、病院の門が開いているのに気づいた。

中では明かりがつき、白衣の人影が何人か慌ただしく動いていた。誰かを探しているようにも見えた。けれど大声は聞こえない。サイレンもない。ただ、建物の中だけが不自然に明るかった。

逃げ出した患者でも出たのかと思った。

関わりたくなかったので、そのままコンビニに入った。買ったのはカップ麺と煙草だけだったから、三分もかかっていない。

店を出て、もう一度病院の方を見た。

真っ暗だった。

門は閉まっていた。明かりも消えていた。さっきまで人影が動いていた場所には、何もなかった。

あの短い間に、老婆を見つけ、連れ戻し、門を閉め、すべての明かりを落としたのか。

そう考えようとしたが、無理があった。

家に帰る途中、背後からまた音が聞こえた。

キコッ……キコッ……。

振り返っても、道には誰もいない。

それなのに、音だけが一定の距離を保ってついてきた。

家に入り、鍵をかけても、しばらく外から聞こえていた。

その晩、夜食を食べている間、家の前の道を車椅子が何度も通り過ぎた。

キコッ……キコッ……。

通り過ぎて、遠ざかる。

少し間を置いて、また近づいてくる。

キコッ……キコッ……。

窓の外を見ても、誰もいなかった。

音は、道の真ん中を正確に行ったり来たりしていた。往復するたびに、金属の軋みが少しずつ濁っていく。古い車輪に髪の毛でも絡まっているような、湿った音だった。

翌晩も同じ時刻に目が覚めた。

外へ出たが、道には何もない。病院の門も閉まっている。明かりもない。

それでも家に戻ると、また聞こえた。

キコッ……キコッ……。

音は十日ほど続いた。

毎晩、深夜二時を過ぎると始まり、明け方近くになると消える。

最後の夜だけ、少し違った。

その日は、外からではなかった。

玄関の中で鳴った。

キコッ……。

一度だけだった。

俺は布団の中で目を開けたまま、朝まで動けなかった。

それきり、音は止んだ。

その年の暮れ、久しぶりに実家へ電話した。

父方の祖母が亡くなっていたと、そのとき初めて聞かされた。

認知症を患い、車椅子で生活していたという。入院していたのは、実家近くのあの病院だった。

亡くなったのは、二〇一二年三月。

俺が車椅子の音を聞かなくなった、その日の未明だった。

俺には知らせが来なかった。

父とは長く連絡を取っていなかった。番号も変えていた。父方の家から母方の実家へ問い合わせたらしいが、母方の祖父が教えなかったという。

理由は聞かなかった。

父の不祥事で家が揉め、両親が離婚し、俺は母方の実家に身を寄せていた。父方の祖父母には小さい頃ずいぶん可愛がられたが、その頃にはもう、向こうの家とは疎遠になっていた。

祖母の顔を、最後に見たのはいつだったか思い出せない。

あの夜、病院の前で見た老婆の顔も思い出せない。

ただ、音だけは覚えている。

キコッ……キコッ……。

あれから何年も経った。

病院の前を通ることは、もうない。

それでも、ときどき夢を見る。

薄暗い廊下を、俺は裸足で歩いている。

後ろから車椅子の音がする。

振り返っても誰もいない。

前へ進むと、音も進む。

立ち止まると、音も止まる。

そして最後には、いつも同じ場所に着く。

実家の玄関だ。

内側から鍵がかかっている。

その向こうで、車椅子が一度だけ鳴る。

[出典:526 :本当にあった怖い名無し:2013/08/28(水) 22:10:56.29 ID:y9EiE3cc0]

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