実家の近くに、古い精神科の病院がある。
幼稚園の頃、あそこには絶対に近づくなと親に言われていた。
高い塀、鬱蒼とした木々、いつも閉ざされた門。昼間でも薄暗く、建物の窓には鉄格子がはまっていると聞かされていたから、子供の俺には、そこが本当に人のいる場所だとは思えなかった。
二〇〇〇年を過ぎた頃から、病院は少しずつ改修されていった。
外壁は塗り直され、窓も新しくなり、以前のような近寄りがたさは薄れていった。認知症の高齢者も受け入れているらしく、いつの間にか、ただの古い病院に見えるようになっていた。
それでも夜になると、あの辺りだけは暗かった。
あれは二〇一二年の三月、深夜二時を少し過ぎた頃だった。
仕事帰りに小腹が空いて、近所のコンビニまで歩いた。街灯はところどころ切れていて、風に揺れる木の影が、歩道の上をゆっくり這っていた。
病院の塀沿いを通りかかったとき、前の方から音が聞こえた。
キコッ……キコッ……。
最初は自転車かと思った。
だが近づいてきたのは、車椅子だった。
乗っていたのは老婆だった。薄い寝間着のようなものを着て、膝に毛布をかけている。顔は水を吸った紙みたいに白く、街灯の下を通っても、表情だけが暗いままだった。

誰も押していない。
車椅子は、病院の方からこちらへ向かって、ゆっくり進んでいた。
病院の敷地からは、もう五十メートル以上離れている。あんな夜中に、あんな場所まで一人で来られるはずがない。
声をかけようとしたが、できなかった。
老婆は俺の方を見なかった。ただ車椅子だけが、一定の間隔で軋んでいた。
キコッ……キコッ……。
そのまま横を過ぎていく。
後ろ姿を見送っていると、病院の門が開いているのに気づいた。
中では明かりがつき、白衣の人影が何人か慌ただしく動いていた。誰かを探しているようにも見えた。けれど大声は聞こえない。サイレンもない。ただ、建物の中だけが不自然に明るかった。
逃げ出した患者でも出たのかと思った。
関わりたくなかったので、そのままコンビニに入った。買ったのはカップ麺と煙草だけだったから、三分もかかっていない。
店を出て、もう一度病院の方を見た。
真っ暗だった。
門は閉まっていた。明かりも消えていた。さっきまで人影が動いていた場所には、何もなかった。
あの短い間に、老婆を見つけ、連れ戻し、門を閉め、すべての明かりを落としたのか。
そう考えようとしたが、無理があった。
家に帰る途中、背後からまた音が聞こえた。
キコッ……キコッ……。
振り返っても、道には誰もいない。
それなのに、音だけが一定の距離を保ってついてきた。
家に入り、鍵をかけても、しばらく外から聞こえていた。
その晩、夜食を食べている間、家の前の道を車椅子が何度も通り過ぎた。
キコッ……キコッ……。
通り過ぎて、遠ざかる。
少し間を置いて、また近づいてくる。
キコッ……キコッ……。
窓の外を見ても、誰もいなかった。
音は、道の真ん中を正確に行ったり来たりしていた。往復するたびに、金属の軋みが少しずつ濁っていく。古い車輪に髪の毛でも絡まっているような、湿った音だった。
翌晩も同じ時刻に目が覚めた。
外へ出たが、道には何もない。病院の門も閉まっている。明かりもない。
それでも家に戻ると、また聞こえた。
キコッ……キコッ……。
音は十日ほど続いた。
毎晩、深夜二時を過ぎると始まり、明け方近くになると消える。
最後の夜だけ、少し違った。
その日は、外からではなかった。
玄関の中で鳴った。
キコッ……。
一度だけだった。
俺は布団の中で目を開けたまま、朝まで動けなかった。
それきり、音は止んだ。
その年の暮れ、久しぶりに実家へ電話した。
父方の祖母が亡くなっていたと、そのとき初めて聞かされた。
認知症を患い、車椅子で生活していたという。入院していたのは、実家近くのあの病院だった。
亡くなったのは、二〇一二年三月。
俺が車椅子の音を聞かなくなった、その日の未明だった。
俺には知らせが来なかった。
父とは長く連絡を取っていなかった。番号も変えていた。父方の家から母方の実家へ問い合わせたらしいが、母方の祖父が教えなかったという。
理由は聞かなかった。
父の不祥事で家が揉め、両親が離婚し、俺は母方の実家に身を寄せていた。父方の祖父母には小さい頃ずいぶん可愛がられたが、その頃にはもう、向こうの家とは疎遠になっていた。
祖母の顔を、最後に見たのはいつだったか思い出せない。
あの夜、病院の前で見た老婆の顔も思い出せない。
ただ、音だけは覚えている。
キコッ……キコッ……。
あれから何年も経った。
病院の前を通ることは、もうない。
それでも、ときどき夢を見る。
薄暗い廊下を、俺は裸足で歩いている。
後ろから車椅子の音がする。
振り返っても誰もいない。
前へ進むと、音も進む。
立ち止まると、音も止まる。
そして最後には、いつも同じ場所に着く。
実家の玄関だ。
内側から鍵がかかっている。
その向こうで、車椅子が一度だけ鳴る。
[出典:526 :本当にあった怖い名無し:2013/08/28(水) 22:10:56.29 ID:y9EiE3cc0]