あれは、小学六年の夏休みが終わる頃だった。
あの森の名を、今でも口に出せない。角田の森。湿った音が喉にまとわりつく。子どもだったくせに、あそこには入ってはいけないと、最初から分かっていた。
いつも遊ぶのは森の手前の崖だった。飛び降りたり、ツルにぶら下がったり、どうでもいい遊びばかりだ。森の中へ足を踏み入れたことはなかった。暗く、湿って、空気が淀んでいた。
奥に廃屋があることは知っていた。誰も住んでいない家。肝試しに入った先輩が、何かを見たと騒いでいたが、誰も本気にはしなかった。
その日、勇紀が森に入った。賢太が止めたが、聞かなかった。ひとりで奥へ消えた。
数分後、絶叫とともに戻ってきた。顔は真っ青で、目が焦点を失っていた。左の頬だけが赤く腫れていた。
婆さんに手首をつかまれたという。包丁を持った爺さんが現れたという。謝っても放してくれず、最後に爺さんに平手で頬を打たれたのだと。
賢太は、崖の上で待っていた。声も物音も、何ひとつ聞こえなかったという。
その話を聞いたとき、私は信じた。腫れ上がった頬が、言い訳を拒んでいた。
一週間後、勇紀が言った。
「今度は夜に行こうぜ」
断れなかった。怖いと言えば終わる関係だった。
夜九時半、サレジオ教会前に集まった。賢太は来なかった。私と拓未と勇紀の三人で森へ向かった。
夜の森は、入口の時点で違った。入った瞬間、背後が閉じた感覚があった。振り返らなかった。
廃屋はすぐに見つかった。拓未が懐中電灯で窓の中を照らす。
「誰もいねぇじゃん」
引き戸は、抵抗もなく開いた。
中はほとんど空だった。奥に小さな机がある。カップ酒と雑草。中央に札が立てかけられていた。
拓未が読もうとして、読めなかった。
次の瞬間、勇紀が机を蹴った。
机が倒れ、札が床に落ちた。
「仕返しだよ」
それと同時に、音がした。
耳元で鳴った。低く、長く、どこからともなく続く音。言葉に似ているが、意味を持たない。耳の奥に張りついて離れなかった。
私は走った。振り返らなかった。背後に何かがいるとは思わなかった。ただ、いないはずのものに触れられた感覚だけが残った。
翌朝、三人で確認した。全員が同じ音を聞いていた。拓未は、出るとき足首をつかまれたと言った。
勇紀は同じ言葉を繰り返した。
「仕返ししただけだよ」
それから森には近づかなかった。
中学に上がり、疎遠になった。
高校二年の夏、留守電に声が残っていた。
「角田の森の件で、良平君にお話ししたいことが」
東京大学の教授を名乗っていた。番号は残らなかった。
翌年、賢太も同じ電話を受けていたと知った。
数年後、勇紀は死んだ。自殺だった。
部屋にはノートが山のように残されていた。どのページにも同じ名前が書かれていた。
仁科。
あの夜、床に落ちた札の文字だった。
拓未は読めなかったと言った。私も読めなかった。
けれど、勇紀は読んでいたのかもしれない。
いまでもときどき、非通知の着信がある。出ても無言だ。
留守電に、低いノイズが残ることがある。あの夜の音に似ている。
私は森の名を口にしないようにしている。
だが、こうして書いてしまった。
あの札に書かれていた名前を、はっきりと。
(了)