前に住んでいた町の小学校での話だ。
小六のとき、国語の授業中に起きた出来事を、今でもはっきり覚えている。
その日は朗読だった。教科書を順番に読んでいく、ごくありふれた時間だ。教室は静かで、窓の外からは体育の笛の音が遠くに聞こえていた。
彼女の番が来るまでは。
彼女はクラスでも群を抜いて頭がよかった。テストはいつも満点に近く、先生もどこか特別扱いしていた。発言も的確で、教科書を読む声も落ち着いていたはずだった。
ところが、立ち上がった瞬間、教室の空気が変わった。
教科書を開いたまま、彼女は一文字も読まず、喉の奥から搾り出すような声を出した。
「ァア゙~……」
声というより、息に近い音だった。
それが途切れ途切れに続き、だんだん大きくなった。誰かが笑いかけたが、すぐにやめた。担任も止める暇がなかった。
次の瞬間、彼女は教科書を落とし、椅子を蹴るようにして教室を飛び出していった。廊下に響いた足音だけが残り、教室は異様な静けさに包まれた。
担任は咳払いをして、「次の人」と言った。それで授業は続いた。
その場で説明はなかったし、保健室へ連れていく様子もなかった。まるで、最初からいなかったかのように扱われた。
翌日、彼女は普通に登校してきた。
顔色も変わらず、奇声を上げたことなど覚えていないようだった。誰も触れなかった。触れてはいけないもの、という空気が自然に出来上がっていた。
異変は、そこからだった。
次のテストで、彼女は半分も点が取れなかった。
漢字の書き取りでは、あり得ないミスを連発し、文章題では空欄が目立った。担任は眉をひそめ、「ふざけているのか」と怒鳴った。彼女は何も言わず、ただ俯いて泣いた。
それは一度きりではなかった。
算数でも理科でも、成績は下がり続けた。以前なら即答できた問題を、じっと見つめたまま動かない。テスト返却のたびに叱責され、そのたびに泣いた。
クラスの空気も変わった。
最初は同情されていたが、次第に「わざとやっている」「かまってほしいんだ」という声が増えた。彼女は誰にも反論しなかった。ただ、以前よりも授業中に朗読を避けるようになった。
それでも、完全に読まされないわけではない。
指名されたとき、彼女は教科書を持つ手を震わせ、口を開こうとして、何も言えずに立ち尽くしたことがあった。そのとき、またあの音が聞こえた気がした。喉の奥で、言葉になる前の何かが渦を巻いているような。
卒業が近づく頃、担任が変わった。
新しい担任は彼女をあまり叱らなかった。成績の話もしなくなった。ただ、「無理しなくていい」とだけ言った。その言葉を聞いたとき、彼女は一瞬だけ安心したように見えた。
卒業式の日、彼女は式辞も送辞も、口を閉じたまま聞いていた。
校歌も歌わなかった。けれど、誰もそれを不思議に思わなかった。
中学に進んでから、彼女の噂を聞くことはほとんどなかった。別の学校に行ったらしい、という程度だ。
ただ、同窓会名簿に彼女の名前はなかった。
大人になってから、ふと思い出すことがある。
あのとき、彼女は何を読もうとしていたのか。教科書のどの行で、声が壊れたのか。
今でも国語の授業で朗読を聞くと、意味より先に音が耳に残ることがある。
文字になる前の声。言葉になる前に、どこかへ引き戻される音。
あの教室で起きたのは、発狂でも、病気でもなかったのかもしれない。
ただ一度、意味が声に追いつかなかっただけなのかもしれない。
それでも、彼女は戻ってこなかった。
勉強ができた彼女でも、泣くだけだった彼女でもない、別の場所へ行ったままだ。
今この文章を読んでいるあなたが、朗読中に声が詰まったことがあるなら。
そのとき、無理に続きを読もうとしなかっただろうか。
それだけが、ずっと気にかかっている。
[出典:201 :クランツ ◆oEXgg113Pc:03/02/16 02:12]