生まれたときには、もう信じていることになっていた。
何を信じているのか、自分で考えた記憶はない。物心がついた頃には、リビングの隅に黒い仏壇があった。金属みたいに冷たく光るやつで、親はそれを拝む前だけ、少し姿勢がよくなった。
親は学会員だった。どこかで入ったのではなく、最初からそこにいた人間みたいに振る舞っていた。
俺もその中で育った。会館の湿ったにおいも、合唱の前に揃う拍手も、笑顔のまま他人を値踏みする空気も嫌いだったが、嫌うこと自体を口にする雰囲気はなかった。
だから合わせた。
座談会にも出たし、機関紙も配ったし、親の前ではそれらしい顔もした。信じてはいなかったが、逆らうほどの気力もなかった。
変わったのは、大学で付き合った女が、寺の娘だったからだ。
向こうも最初は言わなかった。俺も言わなかった。
結婚の話が出て、初めて彼女の実家に行った日に、全部わかった。
門があった。鐘があった。本堂があった。
住所の先にあったのは家ではなく、寺だった。
俺は駐車場に入る前に車を止めて、携帯で彼女を呼び出した。
出てきた彼女は、門の脇で泣いていた。
「学会の人やって聞いてたから、うち、言われへんかった」
そのとき初めて、自分が空っぽのまま背負っていたものの輪郭が見えた。
信じていないから軽いわけではなかった。自分で選んでいないものほど、他人の前では重い。
その夜、ファミレスで彼女と話して、俺は抜けると決めた。
家も、親も、あの黒い箱も、全部切るつもりだった。
次の週末、両親に言った。
「俺、もうやめる。彼女と結婚したい」
父はしばらく黙っていたが、急に顔つきが変わった。
普段は冗談ばかり言う人だったのに、そのときだけ目の奥が妙に乾いて見えた。
「女に毒されたか」
母は何も言わずに立ち上がった。
玄関から戻ってきたとき、手に箒を持っていた。
その日、俺は彼女を守れなかった。
母は彼女の頬を打って、それから箒で肩や背中を何度も叩いた。彼女は声も上げずに泣いていた。俺は間に入ることもできず、立ち尽くしていた。
それで終わった。
親とも切れたし、もう戻れないこともわかった。
だが、家を出るだけでは足りない気がした。
あの家から自分を持ち出すだけでは、まだ中身が残ると思った。
だから、親に温泉旅行を贈った。
大学に行かせてくれた礼だと言った。泣いて喜んでいた。
その隙に実家へ入り、服と書類と本を軽に積み込んだ。最後に、仏壇を下ろした。
思っていたより重かった。
箱の重さというより、中に誰かが座っているみたいな重さだった。
まだ暗いうちに海へ向かった。
名前も知らない浜だった。人はいなかった。風だけが強かった。
砂の上に仏壇を置いて、持ってきた金属バットで殴った。
一発目は響いただけだった。
二発目で角にへこみが入った。
三発目で、俺の手のひらが痺れた。
ようやく扉が少し開いた。
中にあったはずの紙のご本尊が、風もないのにふわりと浮いた。
紙なのに、落ち方が遅すぎた。
海の近くなのに、あたりは線香みたいなにおいがした。
俺は笑っていた。
笑わないと、その場に立っていられなかった。
ライターで端に火をつけると、紙は一度黒く縮んで、それから急に赤く燃え上がった。
灰が散った。風上に向かって散った。
その灰の向こうに、誰か立っていた。
白いものを着ていた気がする。
女に見えた。
母に見えたのは、その輪郭ではなく、立ち方だった。肩を少しだけ前に入れて、顎を引いて、まっすぐこっちを見る立ち方。遠くて顔は見えないのに、それだけで母だと思った。
「おまえ」
そこまで聞こえた気がした。
次の瞬間には、もういなかった。
波の音しかなかった。
車に戻ったとき、助手席に紙袋があった。
行きにはなかった。
中を見ると、黒い数珠が入っていた。房の切れかけた、母がいつも使っていたやつだった。
捨てようとして、触れた瞬間にやめた。
濡れていたからだ。
海水ではなかった。ぬるくて、少し粘ついていた。
それを最後に、俺は親と完全に切れた。
引っ越して、姓も変えて、彼女と結婚した。
子どももできた。
寺の近くには住まなかった。仏壇も置かなかった。拍手もしなかった。会館にも行かなかった。
それでも、抜けた感じはしなかった。
最初は電話だった。
夜中に鳴る。出ても誰もいない。
留守電には風の音だけが入っている。海の風みたいな、長く引く音だった。
次に、においが出た。
家のどこにも線香なんてないのに、夜になると廊下の角だけ、古い仏間みたいな湿ったにおいがした。
娘がそこを通るときだけ、少し頭を下げるようになった。
誰に教わったわけでもないのに。
妻は一度だけ、娘を叱った。
「そんなことしたらあかん」
娘は不思議そうな顔で言った。
「だって、ここにおるやん」
そのとき妻が見ていたのは、廊下の角だった。
俺が見ていたのも、同じ場所だった。
何もなかった。
なのに、娘だけはそこに向かって、小さく手を合わせていた。
五歳になるころには、娘は玩具の電話でよく誰かと話すようになった。
相手の名前を聞いても言わない。
ただ、話し終えると必ず受話器を俺に渡してくる。
「おとうさん、かわって」
冗談だと思って何度か耳に当てたが、何も聞こえなかった。
それでも娘は、ちゃんと聞かなあかんよと怒った。
その言い方が、母に似ていた。
昨日の夜、また玩具の電話を持ってきた。
娘は眠そうな顔で立っていて、いつもより小さい声で言った。
「おばあちゃん、海の箱、まだ開いたままやって」
喉が詰まって、何も聞き返せなかった。
娘はそのまま受話器を俺の耳に押しつけた。
最初は無音だった。
それから、遠くで波の音がした。
風が鳴っていた。
その奥で、ぱん、ぱん、と二回だけ拍手が聞こえた。
受話器を離そうとしたとき、女の声がした。
母の声ではなかった。
もっと若かった。
もっと近かった。
「次は、この子やから」
今夜、娘が寝室の隅に向かって、ひとりで頭を下げている。
そこには何も置いていない。
それなのに、暗い壁だけが、黒い仏壇みたいに光って見える。
[出典:341:本当にあった怖い名無し:2013/07/23(火) 23:56:36.47 ID:SbAcZn8b0]