同じ話を三度聞いた。細部は違うのに、核だけが変わらない。そこが不気味だった。
夜道で彼女と別れたあと、眠れずに天井を見つめながら、あの語りを繰り返し思い出した。他人の体験のはずなのに、思い返すたびに自分の記憶のどこかへ潜り込んでくる。聞いた覚えではなく、見た覚えに近づいていく。そのずれが、じわじわと輪郭を持ち始めていた。
その夜、繁華街はいつもどおり光っていた。ガラスに跳ね返るネオン、押し流される人波。立ち止まれば背中を押される。彼女は寒さに肩をすぼめ、流れに身を任せて歩いていたという。
ふと視界の端に、動かないものがあった。
カフェの窓際に、友子が座っている。
人混みの速度だけが速く、その一点だけが時間から取り残されたように静止していたと彼女は言った。友子はコートの襟を整え、テーブルに肘をつき、ただ目だけを左右に動かしている。誰かを探しているのか、それとも数えているのか。窓越しに見えるその動きは妙に正確で、意味がありそうで、意味がなかった。
胸騒ぎをごまかすように、彼女は携帯を取り出した。軽い悪戯のつもりだったという。鳴らして、背後から驚かせる。そういう距離感のはずだった。
呼び出し音が鳴る。
窓際の友子は、反応しない。
三度目のコールで通話が繋がった。
「なに、どうしたの」
受話口から聞こえたのは、友子の声だった。落ち着いた、家にいるときの声。背後にはテレビの音と、食器が触れる乾いた気配がある。彼女は窓の内側と、耳の内側を同時に見比べることになった。
「今どこにいるの」
「家だよ。外出てない」
ガラスの向こうの友子が、ゆっくり顔を上げた。
視線が合った。
その瞬間、窓の内側の友子が、にっこりと笑った。
自然な笑顔ではない。表情の順序を踏まず、口角だけが先に動いた。遅れて目が細まり、最後に頬が引き上がる。真似ている。そう思ったと彼女は言った。けれど、真似ているのが何なのかはわからない。
「ねえ、後ろ、なんか聞こえない」
受話口の友子の声が、急に硬くなった。
通話の向こうから、はっきりと叫び声がした。
「トメ子ぉ!」
混線ではない。距離感がある。遠くからではなく、すぐ近くからだとわかる音量だったという。彼女は耳を塞いだ。けれど、音は鼓膜の内側から鳴っていた。
窓の内側の友子が立ち上がる。
椅子が倒れる音はしない。
ガラスを隔てているのに、振動が足裏に伝わる。
指がこちらを指す。
「トメ子ぉ!」
怒りなのか、焦りなのか、それとも確認なのか。その叫びは、名前を呼んでいるのに、名指ししていない。彼女は逃げた。背後で足音が追いかけてくる。振り返れば何かが確定する気がして、振り返らなかった。
電話の向こうの友子が泣き声で言う。
「早く来て。ここにいるから」
どちらが「ここ」なのか、彼女は考えなかった。
辿り着いた友子の家には、確かに友子がいた。玄関の灯りの下で、普段と変わらない顔をしている。ただ、笑うまでにわずかな間があったという。
「さっきの声、わたしにも聞こえてた」
そう言ったあと、沈黙が落ちた。
二人で向かい合って話した夜、何度も同じ言葉が出た。偽友子。影。抜け殻。もうひとり。けれど、どの言葉も最後まで言い切られなかった。名前を与えた瞬間に、何かが固定される気がしたのだという。
それ以来、二人のあいだには触れてはいけない空白ができた。繁華街を歩くとき、ガラスに映る自分が一拍遅れる気がする。冗談のように言うが、目だけは笑っていない。
私はその話を三度聞いた。
三度目、彼女はこう言った。
「あのときね、窓の向こうの友子、わたしが電話をかける前から、こっちを見てたの」
私は今、窓の前でこれを書いている。
画面の黒に、私の顔が映っている。
さきほどから、視線が合っている。
文字を打つ指を止めても、向こうの私は、まだ微かに笑っている。
(了)