村に入ったのは、梅雨が終わった直後だった。
四方を山に囲まれた小さな集落で、地図には辛うじて地名だけが残っている。私は民俗学を専攻する大学院生で、いわゆる「呪物」の実地調査を目的にここを訪れた。信仰や迷信そのものに興味があったわけではない。人がなぜ怖がるのか、その構造を記録すること。それが今回の調査の主眼だった。
最初に見せられたのは、古い燭台だった。真鍮製で、長年使われてきたらしく、溶けた蝋と煤が層になって固着している。村では、この燭台に火を灯した家では「身内が減る」と言われているらしい。具体的な期間も条件も語られない。私はその曖昧さにこそ意味があると思った。死は誰の家にも訪れる。出来事の側ではなく、記憶の側が選別しているだけだ。
次に出されたのは、木製の櫛だった。歯の一本が途中で折れている。これを持った者は、眠っている間、背後に気配を感じ続けるという。何をされるわけでもない。ただ、起きると妙な疲労が残る。それだけだと説明された。村では「夢を減らす櫛」と呼ばれているらしい。
私はすべてをノートに記録した。材質、摩耗の具合、聞き取りの文言。呪いとは、説明不能な出来事を一箇所に集めて封じ込めるための記号だ。対象物はただの容器で、中身は語りだ。そう整理できた時点で、この調査はほぼ終わったようなものだと思っていた。
三日目の夜、宿の机の上に、小さな石像が置かれていた。
掌に収まる程度の大きさで、地蔵に似ている。ただ、顔の造形が曖昧で、どこを見ているのか分からない。昼間、村の外れで「夜になると位置が変わる」という話を聞いた像と、形がよく似ていた。誰かの悪戯だろう。そう判断した。
私は像を撮影し、寸法を測り、ノートに書き込んだ。
「位置変動型呪物。移動は物理的か心理的か未確認」
翌朝、像は消えていた。
代わりに、ノートの中央付近のページが一枚、きれいに破り取られていた。切れ目は鋭く、手で引き裂いたようには見えない。
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記録補足
本来この箇所には参照番号が存在する
だが番号の対応先が確認できない
資料の所在も不明
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その文章は、私の筆跡だった。
四日目、燭台を預かっていた家で火事が起きた。死者はいない。仏間だけが焼け落ちた。統計的に見れば、山間部の古い家屋での出火は珍しくない。私は偶然だと考えた。
焼け跡の中央に、あの石像が立っていた。
煤は一切付着していなかった。
私は写真を撮ろうとした。だがカメラのメモリーには、前夜に撮影したはずの画像が存在しなかった。代わりに保存されていたのは、ノートの一頁を写した写真だった。
そこには、私の字でこう書かれていた。
「語られるたびに位置が変わる」
その一文を書いた記憶はない。
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補遺
呪物の定義は再検討を要する
物理的対象に宿るのではない
語りの連鎖に寄生する可能性が高い
対象は媒体にすぎない
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私は村を出ることにした。
帰路のバスの中でノートを読み返すと、項目が一つ増えていることに気づいた。見覚えのない分類番号が振られている。
「第四例 本書」
説明欄には、簡潔にこう記されていた。
「再話されるごとに内容が変動する
読者は次の保管者となる
記録を増補した者は位置を固定できない」
私はノートを閉じた。
だが、今あなたが読んでいるこの記録は、私の手元に残っている最終版ではない。最後のページは、本来、空白だったはずだからだ。
ここに記されている文章は、私が書いたものではない。
もしこの話を誰かに語ったなら、項目は増えるだろう。燭台や櫛や石像と同じ列に、別の名前が並ぶ。
呪いとは、読むことだ。
この記録を閉じる前に確認してほしい。
部屋のどこかに、見覚えのない小さな像はないか。
さっきと同じ場所に、まだあるだろうか。
(了)