今でも、あの夜の匂いを思い出すと、喉の奥がひりつく。甘ったるい柔軟剤と、湿った埃、金属が擦れるような微かな油臭さ。それらが混ざり合い、肺の奥に薄く膜を張る。
その施設は、駅から二つ先の住宅街にぽつんと建っていた。
昼間なら見落としてしまうほど平凡な外観で、看板には色褪せた文字で「二十四時間営業」とある。明滅しない蛍光灯が、やけに律儀に入口を照らしていた。
指示された時刻ぴったりに到着した。
一分でもずれたら帰れ、とメールには書いてあった。理由は説明されていない。
私は約束を守る人間だ。少なくとも、そう振る舞うことで生き残ってきた。
ドアを押すと、洗濯機の回転音が低く腹に響いた。
規則正しい振動が、心拍を勝手に揃えてくる。
誰かに合わせさせられる感覚は嫌いではない。むしろ安心する。
店内は意図的に暗かった。
照明は点いているが、影が逃げ場を失って床に貼りついている。
ベンチの奥に、人影があった。
男はくたびれたコートを着て、缶コーヒーを握っていた。
視線だけが、洗濯槽の中の白い渦よりも鋭い。
「遅くはないな」
声は低く、確認のためだけに発せられたようだった。
私は返事をせず、向かいのベンチに腰を下ろした。
他の利用者はいない。防犯カメラも見当たらない。
それが異常だと感じる前に、私は「配信向きだ」と計算していた。
「……で、話って?」
自分の声が、少しだけ乾いて聞こえた。
喉が渇いているわけではない。期待だ。
私はこういう瞬間に、生きている実感を得る。
「告発ネタだ。あんたのチャンネル向けだ」
やはり、という安堵が腹の底で温まった。
私は企業不祥事や内部告発を扱う動画配信者だ。
正義を語る。透明性を叫ぶ。
だが、実際に気にしているのは再生数の伸び方だけだ。
需要があるからやる。
再生されるから、怒る。
それ以上でも、それ以下でもない。
「今回は国レベルだ」
その一言で、背中に薄く汗が滲んだ。
指先がわずかに熱を帯びる。
この感覚を、私は知っている。
「証拠は?」
男は足元の袋からファイルを取り出した。
紙の擦れる音が、やけに大きく響く。
私が手を伸ばした瞬間、男はそれを引いた。
「条件がある」
「条件?」
「観測許可だ」
意味が分からなかった。
いや、正確には、分かろうとしなかった。
「ここを利用する人間は全員出してる。本人確認と、意識観測への同意だ。署名すれば、資料は渡す」
私は一瞬だけ眉をひそめた。
だが、すぐに肩をすくめる。
「いいわよ。どうせ形式でしょ」
誓約書の文面は細かく、行間が異様に詰まっていた。
読む気は起きなかった。
ペンを走らせ、自分の名前を書いた。
書き終えた瞬間、なぜか自分の筆跡に見えなかった。
線の癖も、払いも、知っているはずの字なのに、少しだけ他人のものだった。
その違和感を口に出す前に、洗濯機の音が、ほんの一拍だけ止まった。
数分後、私はファイルを抱えて施設を出た。
夜風が生ぬるく、頬に貼りつく。
高揚感が、理性を押し流していた。
動画は爆発的に拡散した。
国家補助金の不正流用。研究機関の虚偽報告。内部文書。
どれも本物だった。
私は「正義の告発者」として祭り上げられた。
取材が来る。案件が舞い込む。スポンサーが増える。
登録者数は、雪崩のように増え続けた。
その頃から、異変が始まった。
配信で話していない言葉が、切り抜き動画に使われている。
誰にも話していない家庭の事情が、匿名掲示板に書かれている。
恋人との会話が、ほぼ逐語で転載されていた。
盗聴を疑った。
部屋を探り、機材を替え、端末を買い直した。
それでも止まらない。
ある配信中、コメント欄に短い一文が流れた。
〈七年前、病室で君は泣かなかった〉
指が止まった。
心拍が、洗濯機の回転音みたいに乱れる。
父の死。
機械音。消毒液の匂い。
私が泣かなかった理由まで、続くコメントは正確だった。
誰にも話していない。
記録も残していない。
それでも、誰かが見ている。
私は、あの施設に戻った。
外観は同じだが、入口の横に受付窓口が増えていた。
「観測の取り消しをしたい」
窓口の男は、淡々と答えた。
「一度でも同意された方は、生涯にわたって観測対象になります」
「詐欺でしょ」
「同意書に署名されています。観測対象となった意識情報は、随時収集され、提供されています」
「誰に?」
「社会全体に」
その言葉で、全てが繋がった。
あの男は情報を持っていたのではない。
観測された誰かの内面を、商品として流通させていただけだ。
そして今、私がその資源になった。
最近、ある匿名掲示板で新しい企画が始まった。
《観測ログ募集》
対象は有名人に限らない。匿名可。閲覧自由。
実在人物の意識データをもとに構成された記録を、毎日更新。
注意書きは一行だけだ。
――本サービスは、観測許可を提出済みの方の内面を使用しています
その文面を読んだとき、
私はなぜか、洗濯機の回転音を思い出していた。
誰かの汚れを落としながら、
同時に、誰かの中身を絞り出す音を。