あれは数年前のことだ。
社員十人にも満たない、小さな会社で働いていた。外から見れば威勢がよく、勢いだけで走っているような会社だった。だが内側は違った。社長は派手好きで、金の動きは荒かった。数字の話になると誰も目を合わせなくなった。
異変が始まったのは、潰れる一ヶ月ほど前からだ。
冬場、三台の加湿器を回していた。朝当番で水を替えると、タンクの底に砂のような粒が溜まっている。最初は掃除不足だと思った。だが粒は日に日に増え、水はうっすらと茶色く濁った。まるで誰かが泥をひとつまみずつ落としているみたいに、静かに。
ポットの水も同じだった。注いだコップの中に、黒い斑点が揺れていた。階を変えて水を汲んでも変わらない。管理会社は異常なしと言った。検査結果も正常だった。
「気のせいだろ」
誰かがそう言うと、皆うなずいた。だが誰もその水を飲みたがらなくなった。
次はコーヒーサーバーだった。
淹れたてのはずなのに、ドブのような匂いがした。ぬるく腐った水の匂いが、鼻の奥に残る。見た目は普通のコーヒーだ。リース会社は原因不明と言い、代替機を置いていった。三日後、同じ匂いがした。さらに別の機械でも同じだった。
それでも「偶然」で片づけた。
その頃には、社内の会話が減っていた。冗談は浮き、笑い声はすぐに消えた。誰かがため息をついても、誰も顔を上げない。空気が重くなっていた。換気しても、変わらなかった。
業務停止の前日。
電話が鳴りやまなかった。得意先、取引先、名も知らぬ会社。怒鳴り声と催促が、受話器越しに押し寄せた。
「社長は外出しております」
同じ文言を繰り返した、その瞬間だった。
背後で、乾いた音が弾けた。
振り返ると、窓際の棚に置いてあった塩の小皿と、日本酒のグラスが床に散っていた。誰も触れていない。机との距離もあった。自然に落ちる角度ではなかった。
その横で、赤いフィギュアが倒れていた。社長が風水だと言って置いたものだ。首が折れ、顔がこちらを向いていた。
誰かが笑った。
「不吉だな。これ、明日から来るなってことじゃないの」
笑い声が重なった。だが誰も拾おうとしなかった。破片はそのままだった。
翌日、「自宅待機」の連絡が来た。理由は曖昧だった。後日、銀行からの融資打ち切りが決定打だったと聞いた。
会社はそのまま閉じた。
今でも思い出すのは、水の濁りでも、匂いでもない。
あの最後の日、床に散った塩が、湿っていたことだ。
乾いたオフィスで、なぜか塩だけがじっとりと水気を帯びていた。誰もそこに水をこぼしていない。踏みつけられてもいない。だが、白い粒は固まり、黒ずんでいた。
あれは、何を吸っていたのだろう。
経営が悪かった。それは事実だ。
だが、あの一ヶ月、何かが確実に沈んでいた。人の心か、場所か、それとも別のものか。
もし今、あなたの職場で、水がわずかに濁りはじめたら。
誰も触れていない物が、ある日ひとりで倒れたら。
それを「気のせい」で片づけるだろうか。
あるいは、もう手遅れだと気づくのは、すべてが止まったあとだろうか。
あのときの塩の湿り気は、いまも指先に残っている気がする。
[出典:投稿者「めめこ ◆Xm8JjFMI」 2014/04/02]