姉は、昔から人に好かれるタイプだった。
目立つほど派手な顔立ちではないが、どこにいても自然に人が寄ってくる。高校に入ってからは彼氏が途切れたことがなく、相手も決まって周囲がざわつくような人間だった。有名大学の学生、誰もが知る企業の内定者、海外勤務帰りの外人。家族としては、正直どこか現実感がなかった。
だからだと思う。
あのとき姉が付き合っていた男を見たとき、違和感より先に戸惑いが来た。
バイト先のカフェの店長だと聞いて、軽い好奇心で店に行った。昼過ぎの客が途切れる時間帯。カウンターの奥にいた男は、年の分からない中年で、清潔感はあるが印象に残らない顔をしていた。声も動きも普通だった。驚くほど、普通だった。
それだけだ。
なのに、その頃から姉は急に壊れた。
最初は眠れないと言い出し、次に食事を取らなくなり、最後はほとんど一日中布団から出なくなった。病名は自律神経失調症だの、軽度のうつだの、医者ごとに違った。薬が増え、時間だけが過ぎた。家族は気を遣い、触れないようにしていた。姉は起きていても、天井の一点だけを見つめていた。
俺がやっていたのは、飲み物を持っていくことだけだった。
朝と夜、声をかけて、返事がなくてもマグカップを枕元に置く。それだけだ。
問題のマグカップは、そのとき使っていたものだった。
白地に淡い柄が入った、少し重たいカップで、姉がやけに大事にしていた。誰にも触らせなかったし、割れないように自分で洗っていた。どこで手に入れたのかは知らない。ただ「バイトでもらった」と言っていた。
ある朝、手が滑った。
カップは床に落ち、鈍い音を立てて欠けた。完全には割れなかったが、縁が鋭く割れていた。やばいと思って拾い上げ、欠けた部分を指でなぞった。
そのとき、内側から黒いものが見えた。
最初はヒビだと思った。次に汚れかと思った。だがよく見ると、細くて、曲がっていて、明らかに異物だった。
髪の毛だった。
一本ではない。何本かが、陶器の中から表面に出ているように見えた。
息が詰まった。
考える前に、体が動いていた。
俺はそのマグカップをビニール袋に入れ、自転車に乗って家を出た。人目につかない場所を探して、隣の県まで走った。高架下のコンクリートの柱に向かって、袋ごと叩きつけた。何度か投げて、音が変わったのを確認してから、破片をそのまま放置して帰った。
家に戻ると、姉が起きていた。
「マグカップどうしたの」
そう聞かれた。声に感情はなかった。
落として割った、と答えた。
姉は一瞬だけ俺の顔を見て、「そう」と言い、また布団に横になった。
怒りもしなかった。悲しそうでもなかった。
それから数週間で、状況は変わった。
姉は店長と別れた。理由は聞いていない。薬も減り、外に出るようになり、普通に笑うようになった。数か月後には仕事を始め、しばらくして、また新しい恋人ができた。一流企業勤めの男で、誰が見ても非の打ちどころがなかった。
両親は安心し、あの時期は何だったんだろうと言った。
友人たちも、戻ってよかったねと言った。
去年、姉はその男と結婚した。
今は幸せそうに暮らしている。少なくとも、そう見える。
俺だけが、あのマグカップのことを覚えている。
誰にも話していない。姉にも言っていない。
今朝、夢を見た。
割れた陶器の内側から、黒いものがゆっくりと外に出てくる夢だった。
目が覚めた瞬間、強い吐き気が込み上げてきた。
朝ごはんのおにぎりを、ほとんど噛まずに流し込んだ。
味はしなかった。
[出典:312 :本当にあった怖い名無し:2011/09/20(火) 10:24:26.57 ID:UaQDi2+I0]