職場の同僚から聞いた話。
年末の追い込みで、深夜の残業をしていたという。規則で電灯は自席のみ、広い事務室の大半は闇に沈んでいた。商店街の一角とはいえ、二十三時を過ぎると人通りは途絶え、不気味な静寂が支配する。
そんなとき、奥の課の電話が鳴り出した。
「こんな時間に……? ろくな話じゃないな」
誰もいないはずの事務室に響くコール音は、不自然に長く続いた。五分、いや十分ほども鳴り続け、苛立ちを覚えた彼はついに受話器を取った。
「す……すいません! こんな時間に! お約束の見積書を今からお持ちしたいんですが!」
はぁはぁと息を切らした若い男の声。
「いや、もう誰もいません。明日にしてもらえますか?」
しかし男は食い下がる。
「申し訳ありません! 予定が大幅に狂ってしまって……でも、最寄りの駅には今着いたんです。明日は別件があって、お伺いできなくて……なんとか受け取るだけでも!」
彼はきっぱりと断った。しかし、通話は一方的に切れた。
「失礼な奴だな……」
だが、それから十五分経っても誰も来ない。駅から会社までは徒歩十五分ほどの距離のはずだ。
「もう三十分経ったぞ? 何やってんだ……」
苛立ちが募ったその時、また奥の課の電話が鳴った。受話器を取ると、先ほどの男が再び詫びる。
「すいません……道に迷ってしまって……もう少しで着きます……」
「もう終電がなくなるので、本当に困るんですよ!」
しかし、また電話が切れた。
事務所は四階にある。窓の外を覗くと、人影はない。それなのに、また電話。
「今、近くまで来ました! 保安の方に話して、中に入れてもらえますか?」
外を見たが、やはり人の気配はない。
保安に確認すると、「誰も来ていない」とのこと。ぞわりと寒気が這い上がる。
また電話が鳴る。
「ありがとうございます! 今、中に入れてもらいました! エレベーターで今、上がります!」
ぞくりとする。保安が誰も通していないというのに?
凝視する事務室の暗闇。
通常、来客は受付の簡易電話から担当者を呼ぶ。直接事務所には入れない仕組みだ。だが男は確かに「今、受付におります」と告げた。
「おい……?」
受話器越しの沈黙。
不意に、暗闇の奥から微かな気配を感じた。
思わず電話を切ると、すぐまた鳴り出した。
もはや出る気にはなれなかった。
鳴り続ける電話を背に、逃げるように事務所を飛び出した。
外の冷たい空気に触れた途端、全身に鳥肌が立った。
あの執拗な電話は何だったのか。
誰の仕業だったのか。
今も、その答えはわからない。
(了)