三歳の頃の記憶が、私のいちばん古い記憶だ。
木枯らしの吹く夕暮れ、公園のブランコにひとり座っていた。鉄の鎖が軋み、耳がちぎれそうに冷たい。手も足もかじかみ、呼吸をするたび喉が痛んだ。それでも帰らなかった。帰れなかったのかもしれない。家に戻れば叱られる。その理由はいつも違っていて、でも必ず何かが足りなかった。
祖母が迎えに来るはずだと、ぼんやり思っていた。いつも来る公園だから、きっと見つけてくれる。風に揺られているのか、ブランコに揺られているのか、もうわからなかった。身体の感覚が遠くなり、心だけが冷えていく。このまま動かなくなれば、叱られずに済むのだろうかと考えた。
母の顔は、はっきり思い出せない。いつも怒っていたから、見ないようにしていたのだと思う。笑えば叱られ、こぼせば叩かれ、気が済むまで殴られた。冬には裸で水をかぶせられたこともある。お尻に安全ピンを刺された記憶がある。背中に熱いものを押しつけられた記憶もある。
父はテレビを見ながら夕飯を食べていた。母に蹴られて床に転がっても、父は箸を止めない。「お母さんの言うことをちゃんと聞きなさい」とだけ言う。その声は、私に向けられていたのかどうかもわからない。
祖母だけが、あとで薬を塗ってくれた。私を抱いて眠らせてくれた。祖母の足が腫れている日もあった。理由は聞かなかった。私は祖母の足に湿布を貼りながら言った。「私が叱られるから、大丈夫だよ」。祖母は何も言わず、笑っていた。
五歳の頃の夜だ。ふと目を覚ますと、隣に祖母がいなかった。布団の温もりは残っているのに、姿だけがない。戻ってくるはずだと思いながらも、不安が胸を押した。襖をそっと開け、足音を殺して廊下に出た。
台所にも、トイレにも、居間にもいない。玄関を確かめようとしたとき、庭のカーテンがわずかに揺れているのに気づいた。隙間から外を見ると、祖母が立っていた。無表情で、じっとこちらを見ている。
安心しかけたその瞬間、視界がずれた。
祖母の手に何かが垂れている。黒い塊だと思った。よく見ると、それは犬の頭だった。舌を出したままの中型犬。地面には胴体が転がっている。祖母の足元は濡れていて、暗がりでも色が違うのがわかった。
祖母は何も言わなかった。私を見たまま、頭と胴を抱え、庭の奥へ歩いていった。
布団に戻り、目を閉じた。眠れば、なかったことになるかもしれない。祖母を、元の祖母に戻してくださいと、声にならない祈りをした。
翌朝、祖母は隣で眠っていた。ゆっくり目を開け、「おはよう、おなか空いたかい」と言った。私は頷いた。祖母の髪から、生臭い匂いがした気がした。気のせいかもしれないと思った。
その頃から、家の中を何かが歩くようになった。狐のような、犬のような、影だけの獣。母の背中に乗り、父の肩に伏せ、居間の天井を横切る。瞬きをすると消える。けれど次の瞬間には、別の場所にいる。
誰にも言わなかった。ある日、祖母にだけ話した。祖母は目を細め、「それは何をしてるんだい」と聞いた。
「くっついてる。父と母に。二人とも、夜になると苦しそう」
祖母はしばらく黙っていた。それから「そうかい」とだけ言った。
やがて、母は包丁を持ったまま立ち尽くすようになり、父は夜中に床を這うようになった。叩かれることはなくなった。私の姿が見えていないようだった。私も、声をかけなかった。
七歳のとき、役所の人が来て両親を連れていった。祖母は何度も頭を下げていた。静かになった家で、私は祖母と向かい合った。祖母は微笑んだ。私も笑った。
十三歳で祖母が倒れた。言葉がうまく出なくなり、寝たきりになった。家の中の獣は、以前より近くに感じられた。祖母の布団の周りを回り、時々、祖母の体に重なる。
「いるよ」と耳元で言うと、祖母はかすかに笑い、「そうかい」と呟いた。
十五歳の春、祖母は亡くなった。全身に発疹が出て、掻き毟りながら、私の名を呼んだ。医師は動物アレルギーだと言った。「動物は飼っていなかったんですよね」と聞かれ、私は頷いた。そうだったはずだ。
今も私はあの家に住んでいる。勝手口から出入りし、祖母の部屋に手を合わせる。
家の中を獣が歩く。数は増えた気がする。ときどき、祖母も混じる。四つ足で廊下を横切り、低い唸り声をあげる。毛皮のように黒く、目だけが白い。
怖くはない。
祖母は、いつも私のそばにいた。今もいる。それがどんな姿でも、関係ない。
私は嬉しい。
……だから今日も、生臭い布団にくるまって目を閉じる。
柔らかな爪が、髪をゆっくり梳いていく。
どこまでが祖母で、どこからが獣なのかは、もう考えない。
(了)