県境に近い二つの町に跨って、人魂が出るという噂のダムがある。
建設の際に沈んだ村の霊だとか、夜中に身を投げた者の魂だとか、由来はいくつも語られているが、共通しているのは「夏の夜、ダムの上を白い光が飛ぶ」という点だけだ。
見に行こうと思った理由に、深い意味はない。
午前中の講義だけの日で、学食で腹を満たしたあと、家に戻って懐中電灯を鞄に突っ込み、カブに跨った。川沿いの道を上流へ向かって走る。五月だというのに空気は重く、雲は白く厚く、陽射しだけが妙に鋭かった。
途中、道の駅で昼寝をし、そばを啜り、時間を潰しながら走った。ダムが見えたのは、もう夕方と言っていい時間だった。
山の切れ目に嵌め込まれた巨大な石の塊は、昼の光の下では異様なほど無表情だった。まだ明るく、人魂が出る気配はない。
陽が落ちるまで、近くの定食屋で時間を潰すことにした。
店員や常連客に噂を振ってみると、返ってきたのは拍子抜けするような話ばかりだった。
盆になると帰ってくるご先祖だとか、ダム下の夏祭りを覗きに来る霊だとか、語り口はどれも穏やかで、怖がっている様子はない。
白い人魂は、地元にとっては怪異というより、季節の現象に近いらしかった。
外が完全に暗くなってから店を出た。
街灯の少ない町で、ダムの天端だけが白く浮かび上がっている。カブを走らせながら目を凝らしたが、照明以外の光は見えない。
脇道から急坂を上り、管理署の建物を過ぎて、天端に立つ。
両脇のコンクリートの塀と手摺、等間隔の照明。そのどれもが新しく、整っていて、夜の中では異物のようだった。
人も車もいない。
ダム湖側から下を覗くと、水面まで三十メートルほどある。黒く、粘るような水が、吸い込むのを待っているように見えた。
反対側を覗くと、腹の奥がざわつく高さがある。落ちれば、途中で壁に叩きつけられ、何度も転がるだろう。
ふと考えた。
もしここで死ぬとしたら、どちらから跳ぶのだろう。
下流側は無理だ。生きている限り、足が前に出ない。
ダム湖側なら、もしかしたら跳べるかもしれない。それは、もしかしたら死なないかもしれないからだ。
死に切る覚悟がない人間ほど、そちらを選ぶのではないか。
考えているうちに、何を基準に「死ぬ」と言っているのか分からなくなった。
白い人魂が自殺者のものなのか、沈んだ村の住人なのか、それも分からない。
分からないことばかりだ。
天端を一往復したが、結局、白い光は現れなかった。
少しの失望と、少しの安堵を抱えたまま、その夜は帰った。
大学近くのアパートに戻ると、隣のヨシが酒を持ってやって来た。
実家から送られてきた野菜でつまみを作り、乾杯する。
「今日はどこ行ってたんだ」
「△△ダム」
「ああ、あそこか」
ダムの噂を話すと、ヨシは黙って聞いていた。
「……白い人魂が、夏に、ダムの上を飛ぶんだよな」
「そう聞いた」
少し考え込んだあと、ヨシは言った。
「俺、ガキの頃、あそこよく行ってたんだ」
「何しに」
「虫取り」
ダムの上は夜になると明るく、光に虫が集まる。網を振り回して走り回っていたら、ある夜、警察が来たという。
下から見ていた誰かが、「白い人魂が飛んでいる」と通報したらしい。
「手摺があるから、下からだと俺らの姿は見えなくてさ。白い網だけが、ふらふら動いてるように見えたんだろうな」
ヨシは笑った。
笑いながら、酒を飲んだ。
「だからさ。あの人魂、たぶん――」
そこで言葉が止まった。
「……いや、いいや」
理由を聞こうとすると、ヨシは首を振った。
「説明すると、変な感じになる」
その夜、夢を見た。
白い網のようなものが、暗い空の中をゆっくり動いている。
それを下から見上げている自分がいて、なぜか手摺が見えない。
目が覚めたとき、腕が妙に重かった。
枕元に、白く細い糸が絡まっていた。
虫取り網の破れた縁のような糸だった。
どこから来たのかは分からない。
[出典:怖い話&不思議な話の投稿掲示板/投稿者「かれき ◆UtLfeSKo」 2018/06/24]