あれは、夏の終わりの夜だった。
湿気が肌に貼りついて、息を吸うたびに肺の奥までぬるい空気が入り込んでくる。昼間の熱を抱えたアスファルトが、足の裏からじわじわと体温を奪っていくような、逃げ場のない夜だった。
その頃、私は住宅街の奥にある小さなカフェバーで働いていた。駅前の喧騒とは無縁の、灯りだけが浮いているような店だ。客も少なく、いつの間にか友人たちの溜まり場になっていた。仕事というより、夜をやり過ごすための場所だった。
その夜、開店準備をしていると、いつもの友人が女を連れて入ってきた。普段は場をかき回す中心人物だ。だが、その日は違った。顔色が抜け落ちたみたいに白く、目の焦点も合っていない。
「どうした。何かあったのか」
彼はしばらく黙ったまま、やがて言った。
「ああ……すげえ怖いことがあった」
隣の彼女も俯いたまま口を閉ざしている。私は冗談半分に笑ったが、空気はまったく緩まなかった。むしろ、何も言わないことの方が重くのしかかる。
「なあ、話せよ」
私はしつこく食い下がった。彼は昔から妙な話をする男だった。けれどその時の沈黙は、話を盛る前の間ではなかった。口に出したくない何かを、押し返しているようだった。
やがて、彼はぽつりと語り出した。
研修旅行から戻った日だった。駅に着いてから、家の鍵を忘れたことに気づいた。だが、家にはいつも誰かがいる。公衆電話を見つけ、家にかけた。
数回のコールで受話器が上がった。
「俺だけど。今、駅に着いた。鍵ないんだ、開けといて」
返事を待たずに切った。いつものことだ。
バスに揺られて帰り、玄関に立った。鍵はかかっている。呼び鈴を押しても応答はない。窓越しに見ても、人の気配はなかった。
不審に思い、もう一度、公衆電話へ向かった。番号を押すと、すぐに受話器が上がる。
「もしもし、俺だよ」
沈黙。
「聞こえてるだろ」
何も返らない。だが、切られもしない。そこに、確かに“誰か”がいる感じだけが残る。
彼は何度もかけ直した。出る。黙る。切られない。応答しない。
やがて諦めて家に戻った。玄関脇の予備鍵を思い出し、中へ入る。家の中は静まり返っていた。電話は元の位置にあり、受話器も正しく置かれている。
彼は居間の電話から、外の公衆電話へかけてみた。正常に呼び出し音が鳴る。何もおかしくない。
念のため、家の電話機を確認し、受話器をきちんと置き直した。そして再び外へ出た。今度は鍵をかけ、ドアを引いて確かめた。
三度目の発信。
コール音のあと、やはり受話器が上がる。
「もしもし」
沈黙。
「姉ちゃんか。ふざけんなよ」
長い間のあと、音がした。声と呼べるのか分からない、奥行きのない振動のようなものだった。
『……ダレモイナイヨ……』
彼は受話器を落とした。叩きつけたのではない。指から滑り落ちたという。
そのまま家へ走った。
鍵はかかっている。自分でかけた鍵だ。開けて中へ入る。誰もいない。
ただ、居間の電話の受話器が、床に落ちていた。
それだけなら、まだいい。
彼が言葉を詰まらせながら続けたのは、そのあとだ。
床に落ちた受話器から、微かな発信音が聞こえていたという。外へかけているときと同じ、呼び出しの音だ。
つまり、外から家へかけたはずの電話が、家の中からどこかへかけられていた。
番号は分からない。履歴も残らない。
ただ、鳴っていた。
彼はそこで黙った。
私は無理に笑おうとしたが、うまくいかなかった。あの時、私がしつこく話させたせいで、何かがこちら側へ移ったのではないか、と一瞬だけ思った。
それ以来、店の電話が鳴るたびに、私は二度ベルを聞いてから受話器を取るようになった。
三度目を、待たない。
一度だけ、閉店後に鳴ったことがある。留守電には何も残っていなかった。だが受話器を戻すとき、ほんの一瞬、耳の奥に空洞のような響きが残った。
あの声に似ていた。
『ダレモイナイヨ』
もし本当に誰もいないのなら、どうして出るのだろう。
そして、出たのは、どちらなのか。
[出典:800 :あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/04/15 21:21]