うちの地方では、神社に奉納する神楽が、ほとんど民間の娯楽のように根づいている。
祭りの時期でなくても、練習の囃子が夜風に混じって聞こえてくるし、一般の家の床の間や応接間に神楽面が飾られているのも珍しくない。
鬼や般若だけでなく、土地の由来もよくわからない面が、ただ「昔からあったもの」として壁に掛けられている。
小学三年生のとき、二つ年上の男の子が都会から転校してきた。祖父の家がこの集落にあり、両親とは離れて、しばらくそこから学校に通うらしいという話だった。ド田舎で、年の近い同性がほとんどいなかった俺は、自然とその先輩と一緒に遊ぶようになった。
先輩の祖父は、地元では顔の利く人だった。屋敷と呼んでも差し支えないほど大きな家に住み、来客も多い。放課後や休みの日、俺はよくその家に上がり込んでいた。子どもにとっては、家そのものが遊び場だった。
ある日、「家の中、探検しようぜ」という話になった。部屋数が多く、廊下も複雑で、行き止まりや使っていない部屋もある。戸を開けるたびに、少しずつ空気が違うような気がして、胸が妙に高鳴った。
「ここ、じいちゃんの書斎」
先輩がそう言って開けた部屋は、六畳ほどだった。机と椅子、本がびっしり詰まった本棚。ドラマに出てくるような、いかにも書斎という造りだ。
目を引いたのは、壁一面に掛けられた神楽面だった。鍾馗、般若、名前の知らないものまで、十枚ほど。どれもきちんとした造りで、埃も払われている。
「すげえな」
そう言いながら眺めていると、先輩がふと首を傾げた。
「あれ、こんなのあったっけ」
指差した先にあったのは、猿の面だった。他の面より明らかに古く、色もくすんでいて、表情がはっきりしない。最初からそこに掛かっていたはずなのに、その瞬間まで、俺はそれに気づいていなかった。
「前来たとき、無かった気がするんだけどな」
先輩はそう言いながら、何のためらいもなく猿の面を外し、顔に当てた。俺の方を向いて、わぁ、と大きな声を出す。
「驚かすな」
笑いながらそう言ったが、先輩は動かなかった。猿の面を顔に当てたまま、背筋を伸ばして立っている。
名前を呼んでも返事がない。冗談にしては長すぎる。急に胸の奥が冷えて、俺は先輩の肩を掴んで揺らした。思ったより力が入ったらしく、面が床に落ちる音がした。
その瞬間、先輩は我に返ったように瞬きをした。
「え、なに?」
「急に動かんくなったんやろ」
「……動いてなかった?」
床を見た。さっき落ちたはずの猿の面が、どこにもなかった。
机の下、本棚の陰、部屋の隅。探しても見つからない。廊下に出て確認しても無い。書斎の扉は、ずっと閉めていなかったはずなのに、いつの間にかぴたりと閉じていた。
先輩に聞くと、書斎に入ったところからの記憶が、きれいに抜け落ちていると言った。祖父に尋ねても、猿の面など持っていないと言う。神楽面は全部把握しているし、あんな古いものがあれば覚えているはずだ、と。
子どもだった俺たちは、その出来事を「不思議な話」として笑った。怖がるより先に、面白がってしまった。誰かに話せば、少し誇らしい気分にすらなった。
それからしばらくして、俺は先輩と少し距離を置くようになった。理由ははっきりしない。ただ、一緒にいると、時々、あの書斎の空気を思い出すことがあった。先輩の横顔が、あの猿の面と重なるような気がして、目を逸らしたくなった。
中学、高校と進むにつれて、会う回数は減った。最後に会ったのは、亡くなる二か月ほど前だった。特別な話はしなかった。昔話も、神楽面のことも、口に出さなかった。
先輩は、高校生のとき、家の裏山で首を吊って亡くなった。遺書はなく、理由もわからなかった。
葬式の帰り、俺はふと、先輩の祖父の家を見上げた。あの書斎の壁には、今も神楽面が掛かっているのだろうか。あの猿の面が、そこにあるのか、最初から無かったのか、それとも、今もどこかに置かれているのか。
考え始めて、やめた。あの日、俺が笑ったこと。怖がらずに済ませたこと。何も起きなかったふりをして、帰ったこと。そのどれが正しくて、どれが間違っていたのか、今となっては確かめようがない。
ただ、壁に掛かった面を見るたび、あの書斎の空気を思い出す。自分が見たものが、本当に「見ただけ」だったのかどうか、その区別が、少しずつ曖昧になっていく。
[出典:299 :神楽面:2025/09/08(月) 18:13:26.22ID:HUq5dnwr0]