大学時代の深夜、俺と山根は、夜更けにラーメンを食いに行った帰りだった。
思いつきで隣の市まで行ったせいで、戻りは真夜中をとうに過ぎていた。
街灯の切れた峠道は、昼間と違って肌に貼りつくような匂いを放っていた。
濡れた土と、苔の青臭さと、遠くの排気が混じる。
鼻の奥が痺れて、舌に鉄の味が残るほどだった。
ハンドルを握る手が汗ばんでいた。
山根は助手席で、ラーメン屋で引っかけた焼酎の残り香を漂わせながら、窓に額を押しつけていた。
エアコンを入れる気にもならなかった。風の通らない車内に、山根の酒とタバコと、湿った空気のにおいが溶けていた。
まるで山ごと息をしているようで、俺たちはその肺の中を走っているような錯覚に陥った。
「ここの峠、いろんな話あるらしいぜ」
山根が唐突に言った。
その声に、かすかに笑いが混じっていたが、酒気の奥に何か硬いものが潜んでいた。
俺は無視するつもりで「ああ」と返した。
それきり山根は黙り込み、窓の外を見つめたままだった。
車のライトが曲がり角の先を舐めるたび、白い霧が地面を這うように揺れていた。
道端に地蔵が立っていた。
その瞬間だけ、車内の匂いが変わった。
濡れた布団を干した後のような、酸っぱい生乾きのにおい。
何かを踏んだような感覚とともに、タイヤの下で土がぬめった。
山根が俯いたまま囁いた。
「……俺の実家の庭にな、小人が埋まってるらしいんだよ」
最初は冗談かと思った。
でも山根の声は妙に湿っていた。
口を開くたび、古い家の畳の匂いのようなものが立ち上がる。
「じいさんが言ってたんだけどな。ウチの庭の隅に、石があって。
その下に、家を守る小人が埋まってるんだと。
でもその小人、いつも怒っててな……毎日水をやって機嫌をとらなきゃいけねぇらしい」
湿った笑い声が車内にこだました。
俺は冗談だと自分に言い聞かせた。
けれど、前方にまた地蔵が見えた。
さっきと同じ顔。
石の表面が雨に濡れて黒光りしていた。
地蔵の前を通り過ぎると、泥の匂いが強くなった。
「曽祖父に聞いたらさ……童を家に迎えた当主が、帰らせまいとして四つ裂きにして埋めたんだと」
山根の声が遠くで鳴っている。
俺の頭の中では、排気と泥と血のような匂いが混ざり合って、吐き気がこみあげてきた。
ワイパーがゆっくり動くたび、フロントガラスの向こうに同じカーブ、同じ木の影、同じ地蔵。
車は確かに進んでいるのに、匂いも景色も少しずつ濃くなっていく。
俺はついに声を上げた。
「よせよ……」
「……こういう時はな、こう言えって曽祖父が」
山根の唇が震えた。
「ホーイホーイ……」
生温い風が吹き込んだ。
どこかで腐った果実のにおいがした。
「ホーイホーイ……おまえのうではどこじゃいな……」
山根が小声で唱えるたび、車の匂いが変わっていった。
プラスチックの焦げた匂い、湿った布の匂い、古い家の押入れの匂い……それらが混ざり、だんだん“人の匂い”になった。
助手席の足元から、何かが這い出してくる気配があった。
俺は正面しか見られなかった。
窓の外の木々が、首を揃えて覗き込んでいた。
その後のことは、よく覚えていない。
次に気づいたとき、明るい道に出ていた。
匂いが一変して、夏のアスファルトのにおいがした。
息を吸い込むと胸が焼けるようで、それが妙にうれしかった。
ファミレスの駐車場で車を止め、俺たちは何も言わなかった。
テーブルに座っても、山根はずっと俯いたままだった。
その服の裾から、土のにおいが抜けきっていなかった。
数日後、山根の家に行った。
玄関を開けた瞬間、鼻を突くようなにおいがした。
水が腐ったような、何かが濡れたまま放置された匂い。
庭の隅に、ひときわ黒い石があった。
その上に、小さな線香が立っていた。煙がまっすぐに上がり、鼻の奥を刺した。
「掘ったんだよ」
背後で山根が言った。
声はかすれていた。
「出てきたんだ。顔だけ、白いままで」
その瞬間、またあのにおいが蘇った。
夜の山道の、土と血と、濡れた石のにおい。
息を止めても、皮膚の奥にまで入り込んでくる。
——ここで書き込みはいったん途切れている——
数時間後、別のスレッドに同じ文章が投稿された。
投稿者名は「yamane」。
本文はまったく同じだったが、最後の一文だけが違っていた。
「運転してたの、俺だったよな？」
[出典：409 ：山道の怪談：03/08/16 23:10]
